Figmaの10億ドルARR達成を支えるセールス戦略:PLG時代の営業組織の再定義
導入: プロダクト・レッド・グロースの旗手Figmaが切り拓く、新たなセールスモデル
デザインとコラボレーションの未来を再定義したFigmaは、その直感的で革新的なツールにより、世界中のクリエイターと企業から絶大な支持を得てきました。創業以来、Figmaはプロダクト・レッド・グロース(PLG)の模範として、製品そのものがユーザーを惹きつけ、採用を拡大していくビジネスモデルを追求。その結果、驚異的な成長を遂げ、年間の経常収益(ARR)は10億ドル規模に達しています。
しかし、Figmaの成功の物語は、単に優れたプロダクトとPLG戦略だけで語れるものではありません。その成長の陰には、従来のセールスモデルの常識を覆す、大胆かつ先進的なセールス戦略が存在します。本記事では、Figmaの最高収益責任者(CRO)であるShaunt Voskanian氏への深いインタビュー内容を徹底的に分析し、FigmaがどのようにしてPLGとセールスを融合させ、現代のビジネス環境に最適化された営業組織を構築したのかを詳細に紐解きます。
Voskanian氏の語る「伝統にとらわれない」アプローチ、つまりカスタマーサクセス(CS)チームやセールス開発担当者(SDR)チームを従来の形では持たないという衝撃的な発言は、多くのSaaS企業にとって新たな示唆を与えるものです。本記事を通じて、Figmaのユニークなセールスモデルの重要性、具体的な機能、ビジネスへの影響、そして将来性を深く理解し、あなたのビジネスにおけるセールス戦略の再考に役立てていただければ幸いです。Figmaが示す、プロダクトと人間が織りなすセールスモデルの未来を、共に探求していきましょう。
1. 伝統を打ち破るFigmaのセールス組織:CSとSDRチームの不在
Figmaのセールス戦略を理解する上で、まず最も注目すべきは、CROのShaunt Voskanian氏がインタビューで述べた「当社には伝統的なCSチームがなく、伝統的なSDRもいません」という発言です。多くのSaaS企業にとって、カスタマーサクセスやセールス開発担当は、成長戦略の不可欠な要素として位置づけられています。なぜFigmaは、これらのチームを「伝統的な形」では持たないという、異例のアプローチを選択しているのでしょうか。
背景にあるFigmaのプロダクト哲学とセルフサービスモデルの威力
この組織構造の背景には、Figmaの創業以来一貫したプロダクトへの深いコミットメントと、その結果として確立された強力なセルフサービスモデルがあります。Figmaは2012年の創業から約6年間、製品の構築、顧客の徹底的な研究、そして完璧なプロダクト体験の追求に莫大な時間とリソースを費やしました。これは、SaaS業界では珍しい、非常に長い「プロダクト開発期間」であり、その結果としてFigmaの製品は、ユーザー自身がその価値を直感的に理解し、自律的に使いこなし、そして内部的に口コミで広めていく力を備えるに至りました。
2017年末から2018年末にかけて本格的な収益化が始まった際も、その成長はプロダクト主導で急速に進みました。多くの顧客はオンラインでクレジットカードを使いライセンスを購入し、社内でリンクを共有することでFigmaの利用が爆発的に拡大したのです。Voskanian氏がFigmaに参画した4年半前には、既にFigmaは「1億ドルから1億5,000万ドルの企業」に成長していましたが、その顧客数は前職のData Dogと比較してもはるかに多く、既存顧客の基盤が非常に強固でした。
初期段階のFigmaのセールスチームの役割は、主に「セルフサービスプランを利用している既存顧客への連絡や対応、そして上位ティアへのアップグレード」に限定されていました。この時期のセールス活動は、まさしくプロダクト・レッド・グロース(PLG)の延長線上にある「プロダクトが主導するアップグレード支援」という色彩が濃かったと言えます。
セルフサービスからセールス主導への戦略的転換
しかし、Figmaのビジネスは常に進化を続けています。現在ではグローバルに展開し、SMB(中小企業)、ミッドマーケット、エンタープライズ、ストラテジックという複数の顧客セグメントに対応しています。そして、この進化の過程で、セールスチームの役割も大きく変貌を遂げました。特にミッドマーケット以上のセグメントにおいては、その活動は「非常にセールス主導型(Sales-Led)」へとシフトしています。
では、具体的に「セールス主導型」とは何を意味するのでしょうか。Voskanian氏は、今日のFigmaのセールスチームが行う活動の「大部分がアウトバウンドである」と明言しています。ただし、これは純粋な「新規顧客獲得のためのアウトバウンド」とは一線を画します。Figmaの場合、セールスチームがターゲットとするのは、既にFigmaを利用している企業、つまり「既存顧客ベース」です。
これらの企業はFigmaを「幸せに使っている」と考えているかもしれません。彼らは特定の方法でFigmaを活用する方法を見つけています。しかし、Figmaのセールス担当者は、顧客の利用パターンや他の成功事例から得られた洞察に基づき、彼らに対して「Figmaをどのように、そしてもっと活用すべきか」という「プロアクティブなインサイト」を提供し、アプローチするのです。
「ハンティングモーション」としてのCS機能の吸収
ここで、伝統的なCSチームが存在しないFigmaのユニークな組織構造が、その真価を発揮します。顧客の多くはウェブサイトとクレジットカードでFigmaを見つけ、自分たちでFigmaが提供する価値を判断して利用を開始します。しかし、平均的な顧客がFigmaをどのように使っているかと、Figmaが考える「理想的なFigmaの活用」との間には、依然として大きなギャップがあるのが現実です。
Figmaのセールスチームの仕事は、このギャップを埋めること、つまり「顧客がFigmaでできること」について、より多くの可能性を積極的に教育し、啓蒙することです。Voskanian氏はこの機能を「CS機能か、アカウント管理機能か」という問いに対し、「ほとんどの場合、それはハンティングモーションである」と結論付けています。
成功するためには、既存の顧客チャンピオンだけでなく、多くの場合、新しい見込み顧客や幹部層を巻き込み、「Figmaについてこれまで知らなかった新しいこと」に興奮させる必要があります。これは、単にサポートを提供する受動的な役割ではなく、能動的に顧客の潜在ニーズを掘り起こし、新しい価値を提案していく積極的な営業活動に他なりません。Figmaのセールス担当者は、顧客がまだ気づいていないFigmaの可能性を引き出し、彼らのビジネスを次のレベルへと導く「コンサルタント」としての役割を担っているのです。
2. PLG時代のセールス戦略:既存顧客への深掘りとプラットフォームの価値
Figmaのセールス組織が伝統的なCSやSDRを持たない理由、そしてその活動がセールス主導型へとシフトしている背景を理解した上で、次に掘り下げるべきは、その具体的なセールス戦略の中身です。特に、既存顧客ベースへのアウトバウンドアプローチの真髄、マルチプロダクト戦略、そしてプラットフォームの価値をどのように訴求しているかについて、Shaunt Voskanian氏の洞察から学びます。
既存顧客へのアウトバウンドの真髄:インサイト提供による価値創造
Figmaのセールスチームが今日行っていることの大部分がアウトバウンドであるとVoskanian氏は語ります。しかし、そのアウトバウンドは、多くのSaaS企業がイメージする純粋な「新規顧客獲得」とは異なります。Figmaのセールスは、既にFigmaを利用している顧客基盤に対して展開されます。
「これらはFigmaを使っている企業であり、彼らはFigmaを幸せに使っていると思っています。彼らはFigmaを特定の方法で使う方法を見つけ出しました。しかし、私たちは好奇心を通じて、そして他の顧客がFigmaをどのように使っているかというパターンを理解することを通じて、彼らが私たちとより多くのことをすべきである、と考えるためのプロアクティブなインサイトを彼らに提供してアプローチしています。」
この言葉は、Figmaのセールスが単なる製品の追加販売やアップグレード勧誘にとどまらない、より深い価値提案に基づいていることを明確に示しています。Figmaのセールス担当者は、顧客の現状を理解した上で、Figmaの製品データ、業界のトレンド、そして他のベストプラクティスから得られた知見を統合し、顧客がまだ気づいていない、あるいは未活用であるFigmaの可能性を提示します。これは「彼らが知らないことを教える」という、コンサルティング的かつ教育的なアプローチであり、顧客のビジネス課題解決に深くコミットすることで、より強固な信頼関係とLTV(顧客生涯価値)の向上を目指すものです。
プロダクト拡張 vs ユーザー拡大:マルチプロダクト戦略の推進
セールスチームの主な役割は何かという問いに対して、Voskanian氏は「正直なところ、それは両方です」と答えています。つまり、「同じ人がより多くのFigma製品を使うこと(プロダクト拡張)」と「より多くの人が同じFigma製品を使うこと(ユーザー拡大)」の双方を追求しています。
Figmaが単一製品からマルチプロダクト企業へと進化する中で、このバランスは特に変化してきました。現在では、「新しい製品を使うこと」に少し重点が置かれているとVoskanian氏は説明します。これは、同じ既存ユーザーが新しいFigma製品を採用することを意味するだけでなく、しばしば「新しいペルソナ」や組織内の異なる部門にFigmaの価値を広げることを含みます。例えば、デザイナーだけでなく、開発者、プロダクトマネージャー、マーケターなど、より広範な職種の人々がFigmaの新しい機能や製品群(例: Figma Dev ModeやFigJam)を利用することで、組織全体のコラボレーションと生産性を向上させる提案を行います。
プラットフォーム戦略の説得力:機能比較を超えた価値の訴求
企業がマルチプロダクト戦略を取る際、垂直統合された競合ソリューションと比較して、プラットフォーム製品の強みをどう伝えるかは重要な課題となります。Voskanian氏はこの点について、単に「この機能は競合のこの機能よりも優れている」というアプローチが最善ではないと強調します。
「最高のセールスパーソンは、会社がどこへ向かおうとしているのか、彼らのビジネスがどこへ向かおうとしているのかを理解し、その全体的なソリューションの価値を、彼らが達成しようとしている事柄に結びつけるのが得意です。」
これは、セールス担当者が機能の細部にこだわるのではなく、顧客の長期的なビジネス目標や戦略的な方向性を深く理解し、Figmaのプラットフォーム全体がその目標達成にどのように貢献できるかをストーリーとして語る能力が求められることを意味します。プラットフォームの力を信じてもらうためには、個別の機能の優位性よりも、Figmaエコシステム全体が提供する統合されたワークフロー、データ連携、効率性の向上といった「本質的な価値」を伝えることが鍵となります。
また、Voskanian氏は「顧客が提供しているものと比較して、提供しているものから最も価値を得られるのはどこかについて、一般的に自分自身に正直である必要がある」と述べています。もし顧客が特定のポイントソリューションから最も価値を得られるのであれば、それを正直に伝え、その価値ドライバーに焦点を当てるべきです。しかし、Figmaの場合、その真の価値はプラットフォーム全体にあると信じているため、顧客にその「プラットフォームの物語」を信じてもらうようなナラティブを構築することが、セールス戦略の核となるのです。
このFigmaのセールス戦略は、PLGモデルの企業が成長の次のフェーズに進む上で、いかにプロダクトの力を活かしつつ、戦略的なセールスの介入を通じて顧客との関係を深め、LTVを最大化できるかを示す好例と言えるでしょう。
3. 最適化された組織設計:フォーカスと専門化の原則
FigmaのCRO、Shaunt Voskanian氏は、セールス組織の設計において最も重視する原則として「フォーカスと専門化」を挙げます。「最高のセールスチームは、非常に、非常にフォーカスされ、専門化されているチームです」と彼は強調します。営業担当者に14種類の異なるタスクを同時にこなすことを求めるのは非現実的であり、それではどのタスクにおいても卓越することは難しい、という信念がFigmaの組織設計の基盤となっています。
セグメンテーションによる役割分担:3つのビジネスモデル
この「フォーカスと専門化」の原則に基づき、Figmaのビジネスは大きく3つの異なるセグメントに再構築されています。これらは、顧客の規模、行動パターン、そして必要なセールスアプローチに応じて明確に分けられています。
セルフサービス(Self-Serve): これは最も基本的なFigmaのビジネスモデルであり、顧客がウェブサイトにアクセスし、クレジットカード情報を入力して、必要なプラン(主に低価格帯のティア)を直接購入する形態を指します。顧客は自身でFigmaの価値を判断し、リンクを共有することで利用を拡大していきます。このチャネルでは、能動的なセールス介入は最小限に抑えられます。
PLGビジネス(SMBセグメント): このセグメントは、主に0人から500人規模の従業員を抱える中小企業(SMB)に集中しています。ここで働くセールス担当者の役割は、セルフサービスからFigmaを使い始めた企業に対し、適切なタイミングで介入し、上位ティアの製品への「アップグレード」を促すことです。Figmaは製品利用シグナルや顧客の成熟度を分析し、セールスがプロアクティブにアプローチすべき「適切な時期」を非常に洗練された形で特定しようとします。Voskanian氏の言葉を借りれば、「新興スタートアップがエコシステムに参入し、自分たちでライセンスを購入し、その後、より上位のティアへ移行する必要が生じた」タイミングで介入するイメージです。
セールス主導(Sales-Led): このセグメントには、ミッドマーケット、エンタープライズ、そしてストラテジックな大企業が含まれます。Figmaのセールスチームの大部分と、より高い戦略的価値を生み出すレップ(担当者)がこのセグメントに配置されています。このセグメントのセールスは、従来の「非常に伝統的なSaaSセールスビジネス」のように運営されています。
ただし、一つユニークな点があります。それは、彼らが主にアプローチするのが「既にFigmaを利用している顧客」であるという事実です。Figmaはこの既存顧客を単なる「顧客」と見なすのではなく、深掘りすべき「潜在的な拡大機会」として捉えます。セールス担当者は、担当するアカウント群を与えられ、毎年、どの企業に深くコミットすべきかという「厳格な優先順位付け」を行います。そして、彼らの仕事は、顧客の組織を徹底的にマッピングし、そのビジネスタイプに基づいて「Figmaのベストインクラスな展開」のビジョンを描くことです。顧客の現在の利用状況と、Figmaが提案する未来の理想的な状態との「ギャップ」を埋めることが、彼らの主なミッションとなります。これには、ディスカバリー、新規ビジネス会議の実施、チャンピオンの育成、インサイトと明確な視点を通じて顧客を未来の状態へと導くプロセスが含まれます。
PLGインターセプトの「最適なタイミング」:早く動くことの重要性
PLGモデルを導入している創業者が、いつセールスを介入させるべきか、という問いに対して、Voskanian氏は具体的なアドバイスを提供します。
「少し早めに開始しても、少し遅れるよりは損がないと思います。なぜなら、私たちが正しいタイミングだと判断しても、それがそうであると誰かを説得する必要があり、それは何度かのやり取りを要する可能性があるからです。」
これは、FigmaのSMBチームが、アップグレード取引で一度は失注しても、数ヶ月後に再度獲得することが非常に一般的であるという経験に基づいています。最適なインターセプトのタイミングは、顧客が製品をどのように利用しているか、どの機能が有料プランにゲーティングされているか、顧客とのインタラクションの仕方など、多岐にわたる要因に依存するため、画一的な答えはありません。しかし、重要なのは、セールスによる介入は単発的なイベントではなく、顧客の購買サイクルに合わせて柔軟に対応し、必要であれば粘り強くアプローチを続けることだと言えるでしょう。
厳密なパイプライン管理とフォーキャスト:伝統と革新の融合
Figmaのセールス主導チームは、その活動が既存顧客の「拡張」と「アップグレード」に焦点を当てているにもかかわらず、伝統的なSaaSビジネスと同様に、非常に厳密なパイプライン管理とフォーキャストプロセスを導入しています。
「パイプラインレビューは絶えず行われ、毎週フォーキャストコールで深く掘り下げています。」
これは、セールス主導の拡張ビジネスであっても、従来のSaaSセールスにおける厳格な規律が不可欠であることを示しています。営業担当者は自身のパイプラインを管理し、機会を創出し、定期的にその状況を共有・議論することで、ビジネスの健全な成長を確保しています。Figmaのセールスチームは、単に「お客様に満足してもらう」だけでなく、明確な目標と責任を持ち、それらの達成に向けたプロセスを厳しく管理しているのです。
「チャンピオン」を育成する秘訣:インサイトと教育の力
顧客内で強力なチャンピオンを育成することは、特にエンタープライズセールスにおいて極めて重要です。Voskanian氏は、その秘訣として最も重要視するのは「インサイトを提供すること」だと述べます。
「まず、彼らの仕事や彼らが考えていることに関連するインサイトを提供しなければなりません。その価値が、チャンピオンが『よし、私は完全にやるぞ』となる最大の要因だと思います。」
これは、単にFigmaの製品を気に入ってもらうだけでは不十分だということです。エンタープライズのチャンピオンを育成するためには、セールス担当者が顧客を「教育」し、「彼らが知らないこと」を教える必要があります。そのインサイトが、チャンピオン自身やそのチームがより効果的に仕事をする手助けとなることで、彼らはFigmaの真の推進者となるのです。このアプローチは、Figmaが単なるツールベンダーではなく、顧客のビジネスパートナーとして深く関与しようとする姿勢を明確に表しています。
Figmaの最適化された組織設計は、プロダクト・レッド・グロースの強みを最大限に活用しつつ、戦略的なセールス介入を通じて、あらゆる規模の顧客における価値創造と収益拡大を追求する、現代のSaaSビジネスにおける先進的なモデルと言えるでしょう。
4. 優秀なセールス人材の採用と育成:伝統的指標への挑戦
Figmaのセールス組織の成功は、その独自の戦略だけでなく、それを実行する優秀な人材に大きく依存しています。CROのShaunt Voskanian氏は、セールス人材の採用、報酬、そしてパフォーマンス管理に関して、従来の常識に挑戦する非常にユニークな視点を持っています。
「クオータは作られたもの」という哲学と報酬体系
Voskanian氏の最も刺激的な発言の一つは、「クオータは作られたものだ」というものです。彼は、年間の売上目標から逆算してクオータを割り振るという、多くの企業で見られる伝統的なアプローチが「偽りの安心感」を生み出すに過ぎないと指摘します。クオータ設定は、単なる数字合わせではなく、より深い哲学に基づいているべきだと彼は主張します。
「クオータに関する私の考え方は、それがあなたが実施しようとしている哲学、つまり『何をすべきか』と『その仕事に対してどれだけの報酬を出すか』についての哲学に関係しているということです。」
この哲学に基づき、Figmaは現在のセールス主導(SLG)モーション、特にミッドマーケット、エンタープライズ、ストラテジックの担当者に対して、非常にユニークな報酬体系を採用しています。これらの担当者が行う仕事は、顧客へのインサイト提供、チャンピオン育成、複雑なマルチステークホルダー取引の管理など、非常に戦略的で難易度の高いものです。この「ハードで戦略的な仕事」を遂行できる人材は限られているという認識のもと、Figmaは「アグレッシブな(比較的達成しやすい)クオータ」を設定し、その上で非常に高い報酬(平均的なエンタープライズ担当者はOTE(On-Target Earnings)の3~4倍)を支払うことで、優秀な人材を惹きつけ、その努力を報いています。これは、質の高い仕事をする人材を長期的に惹きつけ、定着させるための戦略的な投資と言えるでしょう。
採用基準:経験よりも資質を重視する
Figmaが求めるセールス人材の資質は、単なる経験年数や過去の実績だけではありません。Voskanian氏は、履歴書を見る上で特に重視する点と、懸念する点を明確にしています。
- 短期離職者への厳しい目: Voskanian氏は、12ヶ月や18ヶ月といった短期間で職を転々とする履歴書(「スーパー・ジャンピー」な履歴書)に対して、「通常、本能的な反応」を示すと述べています。その理由として、そのようなキャリアパスが、長期的なコミットメント、粘り強さ、または困難な状況に立ち向かう「グリット(やり抜く力)」の欠如を示唆する可能性があると考えているからです。もちろん、個人的な理由や文化的な適合性の問題も理解しつつも、規模の大きな採用においては、このパターンが一定のリスクを示唆すると捉えています。
- 重視する資質:
- グリットと粘り強さ(Perseverance): 困難な状況でも諦めずに目標に向かって努力し続ける力。
- 成長マインドセット(Growth Mindset): 常に学び、成長しようとする意欲。
- 好奇心(Curiosity): 顧客やそのビジネス、そして市場に対して深い興味を持ち、理解しようとする姿勢。
- 複雑な取引経験: マルチステークホルダーを巻き込む、長期的なセールスサイクル、幹部層へのアプローチなどの経験。業界知識は後からでも習得可能だが、これらの複雑な取引を管理する能力は、時間をかけて培われるものと見なされます。
選考プロセスの工夫:持ち帰り課題「ディスコデモ」
Figmaの採用プロセスでは、候補者の資質を深く見極めるために、「持ち帰り課題(Take-Home Assignment)」が導入されています。これは「ディスコデモ(Disco Demo)」と呼ばれるもので、候補者には特定のユースケースと顧客に関する情報が与えられ、それに基づいて「ディスカバリー(Discovery)」と「デモンストレーション」を行うことが求められます。
Voskanian氏が特に重視するのは、製品の華麗なデモンストレーションよりも、「ディスカバリー能力」です。数日でFigmaの製品を完璧に使いこなすことを期待するのは公平ではないと認識しつつも、製品を学ぶ「粘り強さ」を示すために、ある程度の製品デモンストレーションは評価対象とします。しかし、何よりも重要なのは、顧客の状況を深く理解しようとする「好奇心」と、効果的な質問を通じてニーズを引き出す「ディスカバリープロセス」の質です。
オファーフェーズでの「赤信号」:「傭兵」か「ミッショナリー」か
オファーフェーズに至った段階でも、Figmaは候補者の真の動機を見極めようとします。Voskanian氏は、「傭兵的(Mercenary)」な候補者、つまり金銭的報酬やタイトルに過度にこだわる姿勢を示す候補者に対して「黄信号」を感じると述べています。
Figmaが真に求めるのは、「ミッショナリー(Missionary)」な人材です。金銭的な成功も重要ですが、それ以上に「キャリア成長」「学習と自己啓発」「コラボレーション」「より良い自分になること」といった、成長マインドセットに根ざした情熱を持っていることが重視されます。金銭的な報酬は、これらの優先順位を追求した結果として後からついてくるものだとFigmaは考えています。複数の企業からのオファーを積極的に比較し、Figmaを他の会社と「競い合わせようとする」候補者に対しても、長期的なコミットメントの欠如や、困難な状況で離職する可能性を懸念します。最終的には、候補者とFigma双方にとって、この採用が「全身全霊(all in)」であると感じられることが重要です。
「ゆっくり採用し、質の高い人材を」の哲学
採用計画の達成と、質の高い人材の確保という二律背反の課題に対して、Voskanian氏は明確なスタンスを示します。
「その二つの選択肢のうちなら、私はゆっくり進む方を選び、採用計画を達成できないリスクを冒すでしょう。なぜなら、もし間違った採用をしてしまえば、どれだけ早く動いても、私の意見では時間を無駄にするからです。」
Figmaは、Bクラスの人材を妥協して採用することよりも、たとえヘッドカウントが空いていても、本当に優秀な人材が見つかるまで待つことを優先します。これは、優秀な人材が組織にもたらす長期的な価値が、短期的な採用目標達成のプレッシャーを上回るという信念に基づいています。また、多くの人が潜在能力を持っており、適切なリーダーシップ、イネーブルメント、そして十分な機会があれば、成功できるという考えも持っています。
クオータを超越するパフォーマンス評価:行動と能力の重視
Voskanian氏の最も「ホットな見解」の一つは、「営業担当者がクオータを達成するかどうかは、私にとってあまり重要ではない」というものです。彼はクオータが遅行指標であり、それだけに頼ったパフォーマンス管理は「怠惰なリーダーシップ」を生み出すと指摘します。特に、エンタープライズのストラテジック担当者のように、年間を通じて大規模なリニューアルに向けて努力している場合、四半期や月ごとのクオータ達成度だけで評価するのは不適切です。
代わりにFigmaが重視するのは、「行動(Behaviors)」と「能力(Competencies)」を核としたパフォーマンスフレームワークです。
- 行動: 協調性、成長マインドセット、勤勉さ、前向きな姿勢、チームへの貢献など、日々の仕事への取り組み方や周囲への影響。
- 能力: 効果的なパイプライン生成(PG)、効果的なディスカバリー、効果的なパイプライン管理など、職務遂行に必要な具体的なスキル。Figma独自のメソドロジー(Figma Value Sellingなど)をどれだけ活用しているかも評価対象となります。
このフレームワークにより、リーダーは単に数字の達成度を問うだけでなく、「なぜクオータが達成できなかったのか」を深掘りし、具体的な行動や能力の課題に焦点を当てたコーチングを行うことができます。もし担当者が懸命に働き、成長マインドセットを持ち、行動も適切であるにもかかわらず、まだ結果が出ていないのであれば、それはクオータ設定が間違っていた可能性や、時間の経過が必要なケースとして捉え、安易な解雇を避けるべきだとVoskanian氏は主張します。
「ローンスター」営業の許容範囲:毒りんごの排除
個人主義的でチームとあまり協力しない「ローンスター」型の営業担当者が、高い実績を上げている場合、Figmaはどのように評価するのでしょうか。Voskanian氏の意見は、「正直、それには場所があると思う」というものです。
「多くの素晴らしいレップを知っていますが、あなたはおそらく彼らをそのように定義するでしょう。そして実際に彼らに話を聞くと、彼らはそれさえ望んでいません。彼らはローンスターであることに誇りを持っているわけではありません。ただ、それが彼らの資質なのです。」
ただし、その「ローンスター」がチームの文化を害したり、周囲に悪影響を及ぼす「毒りんご」と化す場合は、話は別です。その場合、Figmaは迅速な対処が必要だと考えます。重要なのは、その個人がネガティブな影響を与えず、自身のパフォーマンスを最大化できる環境を尊重しつつ、組織全体としての健全性を確保するバランスを見極めることです。
Figmaのセールス人材に対するこの多角的で人間中心のアプローチは、数字や伝統的な指標にとらわれず、個人の潜在能力と組織文化への適合性を重視することで、持続可能な高パフォーマンスチームを構築しようとする、先進的なSaaS企業の姿を浮き彫りにしています。
5. セールステクノロジーとFigmaの未来への展望
Figmaのセールス戦略と人材育成の哲学を探る中で、現代のテクノロジーが営業活動に与える影響と、Figmaが未来をどのように見据えているかについても、Shaunt Voskanian氏は興味深い洞察を共有しています。
シートベースプライシングの行方:AI時代への適応
SaaS業界では、「シートベースプライシング(座席数に基づく課金モデル)は死んだ」という議論が活発に行われています。多くのビジネスモデルでは、成果ベースや消費ベースの課金がより適切であるという意見があります。しかし、Voskanian氏はFigmaのビジネスに関して、「そのようなことを示唆するものは何も見ていません」と語ります。
実際、Figmaは最近の決算発表で、ネットリテンションレートを131%から136%へと5ポイントも上昇させており、これはシートベースモデルでの非常に力強い成長を示しています。その一因として、世界中で「ビルダー(開発者やデザイナーなど、何かを創造する人々)」が増加していることが挙げられるかもしれません。
しかしFigmaも、このトレンドに完全に無関心なわけではありません。数日中には、AI機能の利用に応じた「クレジットベース」の課金モデルを導入する予定であることを明かしています。これは、新しいテクノロジーの進化に合わせて、価値提供と収益化のモデルを柔軟に調整していくFigmaの姿勢を示唆しています。特定の職種(例:カスタマーサポート)のように、座席数で課金するのが難しいビジネスがあることを認めつつも、Figmaの主要な顧客であるプロダクトピープルやデザイナーにとっては、まだシートベースモデルが有効であると考えているようです。
営業テクノロジーの活用と課題:実行と革新のバランス
セールス組織におけるテクノロジー導入に関して、Voskanian氏は正直な懸念を表明しています。
「正直なところ、それは私がこれまで歴史的に最も重要視してきたことではありません。私はインプット、つまり日々何をしているか、顧客とどのような会話をしているかにはるかに集中してきました。」
これは、Figmaのセールスチームが「実行」に強くフォーカスするあまり、新しいセールステクノロジーへの「投資」や「導入」が遅れがちであるという自己認識です。しかし、最近ではその懸念が大きくなっており、よりエージェント的なソリューションや、営業担当者の仕事を容易にする革新的なテクノロジーへの投資の必要性を強く感じています。データ入力の重複など、営業担当者が抱えるフラストレーションを解消し、業務の摩擦を取り除くことで、彼らの生産性と幸福度を向上させることができると考えています。
AIエージェントの育成と未来のスキルセット
将来的にAIエージェントがセールスに導入された場合、そのトレーニングを適切に行う能力がチームにあるかという問いに対して、Voskanian氏は「私たちがそうであるかは分かりません」と率直に答えています。AIエージェントのトレーニングには、これまでの営業スキルとは異なる専門知識が必要であり、Figmaのチームが現状でその能力を十分に持っているかについては、さらなる探求と学習が必要であるという認識です。このコメントは、今後数年間で、AI導入とトレーニングに関するコンサルティングビジネスが非常に重要になることを示唆しています。
営業チームの規模拡大への継続的な投資
Figmaは既に高い効率性を誇る企業ですが、今後もセールスヘッドカウントへの投資を継続する方針を示しています。
「私たちは効率化についてたくさん話しましたが、今ではどのくらい効率化できるでしょうか?もし50万人の顧客を300人のコア担当者でサポートしているとしたら、既にかなり効率的です。」
これは、これまでの「効率化の追求」から一歩進んで、顧客との戦略的なエンゲージメントを深めることによって、さらなる価値創造と成長機会を見出しているためです。Figmaの経営陣は、戦略的な仕事をするセールス担当者への投資が、今後も素晴らしい結果をもたらすと確信しており、営業チームの規模を拡大していくことで、顧客との関係性をより深め、未開拓の可能性を追求していく計画です。
リモートセールスチームの現実と課題
リモートセールスチームの将来について、Voskanian氏は「死んでいない」ものの、「より難しい」と指摘します。完全なリモート環境は、組織内のシステムにより多くのプレッシャーをかけ、リーダーシップにより高いレベルの責任とスキルを要求します。しかし、同時に、リモートワークの選択肢を提供することは、優秀な人材を獲得するために不可欠であるとも認識しています。現代の労働市場において、場所にとらわれずに才能ある人材を惹きつけるためには、柔軟な働き方が重要な要素となるからです。
個人的な後悔と未来への期待
キャリアにおける最大の「後悔」について問われると、Voskanian氏はFigma入社初期の経験を挙げます。彼は「ホットに入ってきて、何も知らないのに何かを変えようとする人物」にはなりたくないという思いから、Figmaの既存文化を観察し、理解することに多くの時間を費やしすぎたかもしれないと語ります。これは後悔とまでは言えないものの、もし時間を巻き戻せるなら、少しだけ異なるアプローチを取ったかもしれない、という率直な反省です。
個人的な未来への期待としては、AI医療の進歩に大きな期待を寄せています。また、9歳と7歳のお子さんとの限られた時間を大切にし、家族との絆を深めることに喜びを感じています。ビジネス面では、Figmaチームの継続的な成長と、業界の進化の中でFigmaがどのようなリーダーシップを発揮していくかについて、大きな期待と興奮を抱いています。
Figmaが示すセールスの未来は、単に最先端のテクノロジーを導入するだけでなく、それらを活用して人間の創造性、共感性、そして戦略的思考を最大限に引き出すことに焦点を当てています。変化の激しい時代において、適応力と人間中心のアプローチが、Figmaのような企業が持続的に成長し、業界をリードしていくための鍵となるでしょう。
結論: Figmaが示す、プロダクトと人間が織りなすセールスモデルの未来
Figmaの驚異的な成長と、10億ドルARR達成の軌跡を支えるCRO Shaunt Voskanian氏の洞察は、プロダクト・レッド・グロース(PLG)時代のセールス組織のあり方に対し、極めて革新的で具体的な示唆を与えてくれました。伝統的なCSチームやSDRチームを持たないというFigmaの異例な組織構造は、単なるコスト削減策ではなく、プロダクトの圧倒的な力と、その上に構築された戦略的なセールスモデルが深く融合した結果であることが明らかになりました。
Figmaのセールス戦略の核心は、「既存顧客へのインサイト提供」と「プラットフォーム価値の深掘り」にあります。単なる製品の追加販売やアップグレード勧誘にとどまらず、顧客のビジネス目標を深く理解し、彼らがFigmaをどのように「もっと活用すべきか」という具体的な示唆を与えることで、真のパートナーシップを築いています。これは、セールス担当者が機能の細部にこだわるのではなく、顧客のビジネス全体を理解し、Figmaのプラットフォームが提供する統合的な価値をストーリーとして語る能力が不可欠であることを示唆しています。
組織設計においても、「フォーカスと専門化」の原則が貫かれています。セルフサービス、SMB向けのPLGビジネス、そしてミッドマーケット以上のセールス主導ビジネスという3つの明確なセグメンテーションは、それぞれの顧客フェーズに最適なアプローチを可能にしています。特に、セールス主導チームが既存顧客を「深掘りすべき潜在顧客」として捉え、厳格なパイプライン管理とチャンピオン育成に注力する姿勢は、PLGモデルの企業が成長の次のフェーズに進む上で、戦略的セールスがいかに重要であるかを示しています。
人材の採用と育成においても、Figmaは伝統的な指標に挑戦しています。Voskanian氏の「クオータは作られたもの」という哲学は、単なる数字の達成を超え、個人の「行動」や「能力」、そして「成長マインドセット」を重視する、より人間中心のパフォーマンス管理フレームワークへと繋がっています。戦略的なハードワークを行うセールス担当者には、比較的達成しやすいクオータと高水準の報酬で報いることで、優秀な人材の定着とモチベーション向上を図っています。短期離職者への懸念や、持ち帰り課題「ディスコデモ」を通じて、グリットや好奇心といった資質を深く見極める採用プロセスは、質の高い人材を確実に獲得するためのFigma独自の工夫と言えるでしょう。
テクノロジーの進化、特にAIがセールスにもたらす影響についても、Figmaは現実的な視点を持っています。シートベースプライシングからAI利用に応じたクレジットベース課金への移行は、市場の変化への柔軟な適応を示しています。また、セールスチームの規模を今後も拡大していく方針は、効率化の追求だけでなく、戦略的な顧客深掘りを通じて、人間ならではの価値提供を最大化しようとするFigmaの明確な意思を反映しています。
Figmaが切り拓くセールスの道は、SaaS企業の新たな成長モデルを提示し、変化の激しい現代において、いかに柔軟かつ戦略的に営業組織を構築・運営していくべきかを示唆しています。それは、プロダクトの力を信じ抜き、同時に顧客の潜在能力を最大限に引き出すために人間が介在する価値を再定義し続ける、先進的かつ人間味あふれるアプローチです。Figmaのこのユニークなセールスモデルは、今後の市場でどのようなリーダーシップを発揮していくのか、その動向から目が離せません。