スタートアップの成長を加速する「取締役会事務局」の全貌:SmartHRとラクスルから学ぶ実践的な仕事術
スタートアップの世界では、事業の成長や資金調達、組織拡大といった「攻め」の話題が中心となりがちです。しかし、企業の持続的な成長と健全な経営を実現するためには、その基盤を支える「守り」の体制が不可欠です。その中でも、これまであまり表舞台に出てこなかった、しかし極めて重要な役割を担うのが「取締役会事務局」です。
今回は、コーラルキャピタルが主催する「CORAL SCHOOL」のイベントにて、SmartHRの横溝雄一氏とラクスルの西田真之介氏をお招きし、「スタートアップの取締役会事務局の仕事術」について深く掘り下げました。両社の具体的な事例と深い洞察から、取締役会事務局が企業成長にどう貢献するのか、その重要性、具体的な機能、ビジネスへの影響、そして将来性について、専門性と分かりやすさを両立させながら詳細に解説していきます。
取締役会事務局とは何か?その隠れた重要性
多くの人が「取締役会事務局」と聞くと、会議資料の準備や議事録作成といった単なる事務作業をイメージするかもしれません。しかし、両氏の解説からは、その役割が企業の根幹を支え、さらには成長を牽引する戦略的な機能であることが浮き彫りになります。
横溝氏(SmartHR)は、取締役会事務局を「コーポレートガバナンスの一丁目一番地を担う存在」と表現します。通常、事業や経営戦略に関する議論は自由闊達に行われるべきですが、そこに法律や会計といった専門的な要素が絡むと、一転して「できない」という壁にぶつかることがあります。そうした際に、事務局が適切なタイミングでカットインし、法的・会計的な制約や可能性を明確に提示することで、議論の方向性を修正し、会社として実現可能な最適な意思決定へと導く役割を果たすのです。
西田氏(ラクスル)も、取締役会の議論が「言って終わり」ではなく、会社として持ち帰って次の議論につなげることの重要性を強調しています。このPDCAサイクルを回す上で、事務局は議論の要点を整理し、次回以降の議論に向けた準備を行うという、企業にとって不可欠な「羅針盤」としての機能を担うのです。
横溝氏が語る「ガバナンスを強化することは、非常に強固な盾を手に入れること」という言葉は、この戦略的役割を端的に表しています。そして、その強固な盾は、やがて「強い武器(矛)」となり、企業の競争力向上に貢献する。これは、ガバナンスが単なるリスク回避のためのものではなく、事業成長を加速させるためのツールであることを示唆しています。
SmartHRの取締役会事務局に見る「攻めのガバナンス」
SmartHRは、創業から間もないスタートアップでありながら、非常に先進的かつ戦略的な取締役会事務局を構築しています。その具体的な取り組みから、「攻めのガバナンス」の実態を紐解いていきましょう。
概要とミッション:執行が「何度でもフルスイングできる」体制
SmartHRの取締役会事務局は、法務ガバナンス本部内の「カンパニーセクレタリー部」が担当しています。そのミッションは明確です。「執行が何度でもフルスイングできるガバナンス体制を構築する」こと。これは、経営陣が事業成長に向けて大胆な意思決定を行えるよう、ガバナンス面から最大限の支援を行うという、まさに「攻め」の姿勢を明確にしたものです。
多様なバックグラウンドを持つプロフェッショナル集団
カンパニーセクレタリー部のメンバーは5名で構成されていますが、そのバックグラウンドは非常に多様です。弁護士、信託銀行出身者、報酬コンサルタント、そしてIR担当者(横溝氏自身)など、多岐にわたる専門性を持つプロフェッショナルが集結しています。この多様性こそが、多角的な視点からガバナンス体制を構築し、経営を支援するSmartHRの強みとなっています。
多岐にわたる業務内容
SmartHRの取締役会事務局の業務は、以下のように多岐にわたります。
- 取締役会事務局: 取締役会の準備・運営・フォローアップ全般。
- 株主総会事務局: 株主総会の準備・運営。
- 監査等委員会事務局: 監査等委員会のサポート。
- 報酬委員会事務局: 役員報酬制度の設計、サクセッションプランの策定。
- 指名委員会事務局: 役員の指名プロセス支援。
- 監査等委員会のサポート
- 役員報酬制度の設計
- サクセッションプランの策定
- 社内規程の管理
- 株式関連事務
- コーポレートガバナンスに関する企画
これらの業務を通じて、経営の透明性と公正性を確保しつつ、経営戦略の実行を円滑に進めるための基盤を築いています。
設立の道のり:成長フェーズとガバナンスの最適化
SmartHRの取締役会事務局は、創業当初からこの体制だったわけではありません。その設立の経緯を時系列で見てみましょう。
- 2013年1月: 株式会社SmartHR創業。
- 2015年11月: 人事労務クラウド「SmartHR」をリリース。
- 2018年3月: 取締役会設置会社に移行。このタイミングで実質的に事務局が設置されますが、初期は「法務ユニット」がその役割を兼任していました。
- 2021年2月: 横溝氏が「カンパニーセクレタリーユニット」を立ち上げ、正式に独立した部署として機能を開始。同時に「執行が何度でもフルスイングできるガバナンス体制を構築する」というミッションが設定されました。
その後も、さらなる社外取締役の選任やスキルマトリックスの作成など、ガバナンス施策が矢継ぎ早に実行されています。この経緯からは、SmartHRが会社の成長フェーズに合わせてガバナンス体制を段階的に強化してきたことがわかります。特に、取締役会設置会社への移行や独立したカンパニーセクレタリー部の設立は、企業規模の拡大と事業の複雑化に対応するための戦略的な意思決定であったと言えるでしょう。
取締役会開催までの徹底プロセス
SmartHRでは、取締役会の実効性を最大限に高めるため、会議開催までのプロセスを非常に細かく設計しています。
2週間前:
- 事務局と社内関係者で、取締役会に上程すべき議案を洗い出し、確認します。
- その際、各議案の「議論時間」と「質疑時間」を事前に設定。特に「未来を創るための議案」には、十分な時間をかけるよう考慮します。
- 株主総会で上程が必要な重要事項がないかチェックを行います。
- 社内取締役から上程したいアジェンダがないかヒアリングを行います。
- 議論が固まった議案については、起案者が資料を作成します。この際、「誤謬軽減フォーマット」と呼ばれる独自のフォーマットを使用し、資料の質を高めます。
1週間前:
- 取締役会議長と、上程される予定の議案について確認を行います。これを社内では「議案MTG Part1」と呼んでいます。
3営業日前:
- 取締役及びオブザーバーに招集通知を送付します。この際、70%程度の完成度を持つ資料もあわせて送付し、事前に議論を深めるための準備を促します。
2営業日前:
- 取締役会資料を100%完成させ、取締役及びオブザーバー向けに送付します。事務局は、同封資料の読み込み状況を確認します。
- 議案提出部署の担当者は、事前に社内取締役に対して「議案内容の概要説明」(社内取締役ブリーフィング)を行います。これにより、取締役は会議当日までに議案への理解を深めます。
1営業日前:
- 監査等委員会が開催され、議案内容について説明が行われます。コメントがあれば事前に事務局が受け付け、対応します。
当日:
- 取締役会議長と事務局が、議案について最終確認を行います。
この徹底した準備プロセスは、取締役会が単なる形式的な報告の場ではなく、質の高い議論と意思決定の場となることを目指している証拠です。
アジェンダの決定と議論の質を高める工夫
SmartHRの取締役会において、アジェンダは複数のソースから集約されます。
- 事務局からの法的・制度的要件: 会社法や社内規程に基づき、必ず議論すべき事項。
- 社内取締役からの事業成長アジェンダ: 経営陣が事業の成長を加速させるために議論したい事項。
- 社外(株主など)からのインプット: 資本市場の期待や外部環境の変化を踏まえた重要課題。
これらのアジェンダは、事前に議長(社外取締役)と調整され、議論の時間配分も綿密に計画されます。特に、横溝氏は「アジェンダを固めすぎない」ことの重要性を指摘します。形式的に議論するテーマを固定するのではなく、経営陣が「これをやりたい」という熱い想いをぶつけられる「生煮えなアジェンダ」を許容し、それを議論する場も設けています。
しかし、その自由闊達な議論にも一定のルールがあります。西田氏がラクスルの例で述べたように、事業や経営戦略に関する議論は自由にすべきですが、法律や会計が絡むと、自由に話した結果「できません」となることも。そうした際には、事務局が「それは難しい」と判断し、適切にカットインして軌道修正を促します。これは、経営のスピード感を保ちつつも、リスクを管理する上で極めて重要な役割です。
また、SmartHRでは「社長が大事だと思って話したいこと」について、十分な「時間」を確保することも意識しています。これにより、経営トップのビジョンや戦略が深く議論され、全員で共有される機会が生まれます。
取締役会当日の運営と議論の深化
SmartHRの取締役会は、原則2時間という制限時間を厳守し、延長はしないというルールが徹底されています。この限られた時間の中で、質の高い議論を行うために、運営にも工夫が凝らされています。
会議は大きく2つのパートに分かれています。
- 取締役会パート: 上程された各部署からの報告事項が中心。
- 投資家ミーティングパート: まだ「生煮え」の状態の、将来的なアジェンダや戦略について自由闊達な議論を行います。
この二部構成にすることで、形式的な報告と、将来に向けた創造的な議論を効率的に両立させています。また、取締役会には社外株主もオブザーバーとして参加しており、Zoomのチャット機能を活用して活発な意見交換が行われています。議事録も、単なる発言の記録ではなく、「議論がなぜそこに落ち着いたのか」を振り返れるように、詳細かつ戦略的な情報として作成されています。これは、過去の意思決定プロセスを検証し、未来の経営に活かすための重要な財産となります。
会議後のフォローアップと継続的改善
取締役会が終わった後も、事務局の仕事は終わりません。SmartHRでは、会議の度に「取締役会アンケート」を実施し、PDCAサイクルを回しています。
アンケートでは、以下のような項目についてフィードバックを求めます。
- 会議の内容が充実していたか。
- 当日の説明内容及び所要時間に関する評価。
- 議案に対する議論の満足度。
- その他、自由コメント。
このアンケート結果は、次回の取締役会の改善に活かされます。また、会議中に結論が出なかった生煮えな議論は、Slackでスレッドを立てて継続的に議論を促し、必要に応じて改めてミーティングを設定します。
横溝氏が強調するのは、「ポリシーは『結果を因果に繋ぐ』。なぜこの意思決定をしたのかを振り返りできるよう」にするということ。これは、成功事例だけでなく、失敗事例からも学び、企業の成長力を高めるための重要な姿勢です。取締役会事務局は、そのための情報収集、整理、分析、共有を担い、企業の「知的資産」の蓄積を支援しているのです。
ラクスルが構築する「多層的ガバナンス体制」
次に、上場企業であるラクスルの事例から、成長したスタートアップがどのようにガバナンス体制を強化しているのかを見ていきましょう。ラクスルは、企業規模の拡大と事業の多角化に伴い、取締役会を中心とした多層的な会議体を構築しています。
上場企業としての組織図と委員会群
ラクスルでは、取締役会を頂点に、以下の主要な会議体が存在します。
- 法定機関:
- 取締役会
- 監査委員会
- 報酬委員会
- 指名委員会
- 全社最適推進:
- CEO
- 3SLT(全社推進リーダーシップチーム)
- エグゼクティブコミュニティ
- 公開委員会
- サステナビリティ委員会
- リスク管理委員会
- 情報セキュリティ委員会
- 自律的な事業運営:
- ラクスルボード
- Dely Techボード
- 各社取締役会(100%子会社)
この複雑な組織図は、ラクスルが成長するにつれて、取締役会だけでは全ての議論を網羅しきれなくなった結果として形成されたものです。各委員会や事業ボードが特定のテーマに特化して議論を進めることで、全体としての意思決定の質とスピードを両立させています。
事務局の役割:全体統括と専門性
ラクスルには、SmartHRのような独立した「カンパニーセクレタリー部」という部署は存在しません。その役割は、経営企画や経営管理部門が担っています。西田氏自身も、長年これらの部門で管理部門の立ち上げからIPO、そして上場後のコーポレートアクション全般を牽引してきました。
ラクスルにおける事務局の役割は、以下のような点が特徴です。
- 広い視野と専門性: 経営企画・経営管理のバックグラウンドを持つメンバーが、コーポレート全体を広く俯瞰しつつ、各領域の専門性を持って対応します。
- 議論の深掘り: 取締役会だけでは深掘りしきれない中長期的な経営戦略、投資・M&A、サステナビリティ、リスクといったテーマについて、各委員会で時間をかけて議論を詰めます。
- 法律・会計面でのサポート: 法律や会計が絡む議論においては、事務局が専門知識を背景に適切な情報を提供し、議論を支援します。
西田氏は、ガバナンス強化の際に「ホーム(法務)のバックグラウンドを持つ者が担当するケース」と「経営企画・経営管理のバックグラウンドを持つ者が担当するケース」があると述べ、ラクスルは後者に該当すると示唆しています。これは、経営の全体像を理解し、事業成長の視点からガバナンスを捉えることの重要性を示しています。
誰が取締役会事務局を担うべきか?必要な「3つの理解」
「スタートアップに取締役会事務局は必要か? CEOやCFOが兼任では不十分か?」という問いは、多くのスタートアップ経営者が抱く疑問でしょう。横溝氏は、この問いに対して「会社のフェーズと実態がマッチしているか」という視点から回答します。ガバナンスばかりを先行させても意味がなく、会社の成長段階に応じた体制を構築することが重要だというのです。
そして、取締役会事務局を担う人材には、以下の「3つの理解」が必要だと横溝氏は説きます。
会社法・社内規程の理解(法務パーソン): これは必須要件です。企業活動の法的枠組みと社内ルールを熟知していることは、全てのガバナンス活動の基盤となります。法務パーソンがこの役割を担うのが一般的でしょう。
経営陣の想いと事業の理解: 経営陣が何を成し遂げたいのか、その熱い想いを理解し、事業の成長戦略を深く理解していることが重要です。取締役会は、経営陣が本質的に議論したいテーマを持ち込み、社外取締役がそれに深くコミットすることで、その価値を最大限に引き出せます。
資本市場の期待値の理解: 特に上場を目指す、あるいは上場後の企業にとっては、資本市場(投資家)が企業に何を期待しているのか、どのような情報を求めているのかを理解していることが不可欠です。社外取締役は、株主の代弁者としてこの視点を持ち込みます。
横溝氏の提案では、理想的な事務局のミニマムな体制として、「法務パーソン」と、「IR経験者」(経営者と一緒に投資家を回り、資本市場の声を常に聞いている人)の2名を挙げています。IR経験者は、経営者の想いを理解しつつ、投資家の視点も持ち合わせているため、上記2と3の理解をカバーできる可能性が高いからです。
しかし、このような高度な専門性と幅広い視野を兼ね備えた人材を見つけることは容易ではありません。採用市場における競争も激しく、また既存の社員を育成するにも時間がかかります。だからこそ、経営者は「すぐに」ではなく「3年後」といった長期的な視点で、社外取締役の選任や社内人材の育成を戦略的に進める必要があります。
西田氏(ラクスル)も、事業や経営戦略に関する議論は自由であるべきだが、法律や会計が絡むと、自由に話した結果「できない」となることもあり、事務局が「難しい」と判断した場合はカットインする必要があると述べ、その専門性の重要性を強調しています。
結論: スタートアップの未来を拓く取締役会事務局
SmartHRとラクスルの事例から明らかになったのは、取締役会事務局が単なる「守り」の機能ではなく、スタートアップの成長を加速させる「攻め」の戦略的なインフラであるということです。
- 経営のスピードと品質の向上: 適切なガバナンス体制は、経営者が安心して事業に集中し、大胆かつ迅速な意思決定を下すことを可能にします。
- 多様なステークホルダーとの信頼構築: 投資家や株主といった外部ステークホルダーからの信頼を得る上で、透明で公正なガバナンスは不可欠です。
- 人材の確保と育成: 強固なガバナンスは、優秀な社外取締役を惹きつけ、彼らが持つ知見を経営に活かす機会を創出します。また、事務局メンバー自身の成長の場ともなります。
これから成長を目指すスタートアップにとって、取締役会事務局の構築は、後回しにできない重要な経営課題です。会社のフェーズや実態に合わせて、必要な人材と仕組みを戦略的に導入していくこと。それこそが、持続的な成長を実現し、社会に大きなインパクトを与える企業へと飛躍するための鍵となるでしょう。
貴社の取締役会事務局は、果たして「攻め」の機能として十分に活用されていますか? SmartHRとラクスルの事例を参考に、ぜひ一度、自社のガバナンス体制を見直してみてはいかがでしょうか。