公共部門のプロダクト開発:構築ではなく「非構築」が答えとなる理由
公共部門におけるテクノロジーの活用は、私たちの社会基盤を支え、市民生活の質を向上させる上で不可欠です。しかし、その取り組みは常に成功するとは限りません。民間企業が市場の需要に応えるために製品を「構築」するのに対し、政府機関では「構築」が必ずしも最善の解決策ではないという、公共部門特有の「構築の罠」が存在します。本記事では、この課題に長年向き合ってきたプロダクトリーダーであるAyushi Roy氏の洞察に基づき、公共部門におけるプロダクト開発のユニークな性質と、その成功に必要なアプローチについて深く掘り下げていきます。
Ayushi Roy氏:政策とテクノロジーの橋渡し役
本テーマの専門家であるAyushi Roy氏は、そのキャリアの大部分を公共の利益のためのソフトウェア構築に捧げてきました。彼女の経歴は、政策立案の世界からテクノロジーとプロダクト開発へと、ユニークな道を辿っています。
Ayushi氏は、ハーバード・ケネディ・スクール・オブ・ガバメントの講師を務める傍ら、シンクタンクであるNew AmericaのNew Practice LabでChief Program Officerを務めています。New Americaは、単なるシンクタンクに留まらず、具体的なデリバリー組織としても機能しており、政策の立案と実行の間にフィードバックループを構築することを目指しています。特に、低所得層の家族や幼い子供たちへの支援に焦点を当て、その成果を最大化するためのテクノロジー活用に取り組んでいます。
彼女のキャリアは、「政府は誰にサービスを提供するかを選べない」という公共部門の根本的な性質に基づいています。民間企業がターゲット顧客を特定し、そのニーズに合わせて製品を開発するのに対し、政府は非常に広範な国民のニーズに応える責任があり、しばしば既存の複雑なレガシーシステムの中で作業を進めなければなりません。
公共部門のプロダクト開発が直面する独特の課題
公共部門におけるプロダクト開発は、民間セクターのそれとは根本的に異なる特徴を持っています。これらの違いを理解することが、成功への鍵となります。
需要創出の不在と広範な顧客基盤: 民間企業では、市場調査を通じて潜在的な需要を特定し、その需要を喚起するためのプロダクトマーケティングを行います。しかし、公共部門において、サービスへの「需要」はすでに存在しています。市民はすでに医療、教育、福祉などのサービスを必要としており、政府の役割は、そのニーズに効率的かつ公平に応えることです。 また、政府は「誰にサービスを提供するか」を選択できません。社会のあらゆる層、最も支援を必要とする人々を含め、広範な国民全体にサービスを提供する必要があります。これは、製品が少数の特定のユーザーではなく、多様な背景を持つすべてのユーザーにとってアクセス可能で使いやすいものでなければならないことを意味します。
レガシーシステムと「グリーンフィールド」ではない環境: 民間企業、特にスタートアップは、しばしば「グリーンフィールド」環境、つまりゼロから新しいシステムを構築する機会に恵まれます。これにより、最新技術を自由に導入し、理想的なアーキテクチャを設計できます。しかし、政府機関では、長年にわたり運用されてきた複雑なレガシーシステムが山積しています。新しいプロダクトを開発する際には、これらの既存システムとの連携や移行が不可避であり、それが開発プロセスを著しく複雑にし、遅延させる要因となります。
成功の尺度がビジネスケースではない: 民間セクターでは、プロダクト開発の成功は主に投資収益率(ROI)や利益、市場シェアといったビジネスケースによって測定されます。しかし、公共部門では、成功は財務的な基準だけでは測れません。むしろ、政策が意図する社会的成果をどれだけ効果的に達成できたか、例えば、市民の生活がどれだけ改善されたか、特定のサービスへのアクセスがどれだけ向上したか、といった点が重要になります。Ayushi氏は、「成功は、非常に広範な国民セグメントに到達し、成果を向上させる能力にある」と述べています。
「構築」が必ずしも答えではない: これらの課題に直面する中で、政策立案者やプロダクトマネージャーは、「何かを構築すること」が常に最善の解決策であるという固定観念から脱却する必要があります。時には、既存のシステムを「非構築(unbuilding)」すること、つまり、重複するシステムを統合したり、不要なプロセスを削除したりすることが、より効果的な場合もあります。この「非構築」の考え方は、限られたリソースを最大限に活用し、真に価値のあるサービスを提供するために不可欠です。
Ayushi Roy氏の経験から学ぶ「非構築」の具体例
Ayushi氏は、彼女のキャリアを通じて、これらの課題に直接向き合い、「非構築」の価値を実証してきました。
1. 911代替テキストベースシステム (大学時代)
Ayushi氏がまだ大学に在籍していた頃、彼女は自身の個人的な経験から、緊急サービスにおける重大な問題を認識しました。当時、祖母の介護をしていた彼女は、緊急時に911に電話しても、自身の住所を何度も繰り返さなければならないことに大きなフラストレーションを感じていました。この経験は、彼女に「もっと良い方法があるはずだ」という強い信念を抱かせました。
この問題意識は、性暴力、ストーカー行為、ハラスメントを経験していた大学キャンパスの学生たちが、同様に緊急時に声に出して助けを求めることが困難であるという現実と結びつきました。そこでAyushi氏は、2人の友人と共に、テキストベースで緊急通報ができるシステムを開発しました。このシステムは、わずか8ヶ月で13の大学の80万人もの学生に展開されるという驚くべき成功を収めました。
このプロジェクトは、Ayushi氏にとって大きな転換点となりました。彼女は、単なる政策立案から、データ駆動型のアプローチで具体的なソリューションを「提供する」ことの重要性を学びました。彼女は当時、この役割を「データ駆動型の配信者(data-driven delivery person)」と呼んでいました。この経験は、後に彼女が公共部門におけるテクノロジーの可能性を追求する原動力となります。
2. オークランド市311システム開発:デジタルデバイドが示す教訓
大学卒業後、Ayushi氏はカリフォルニア州オークランド市に移り、新しく選出された市長からの依頼で、都市のサービス要求に対応する311システムの開発に携わることになります。彼女の通信に関する専門知識が買われ、市の「テレコム」の仕事を任されることになりました。
当初、チームは民間セクターのプロダクト開発の手法をそのまま公共部門に適用しようと考えました。最新のMacBookやiPhoneをチームに支給し、洗練されたユーザーインターフェースを備えたデジタルアプリケーションの構築を目指しました。しかし、実際にオークランドのダウンタウンにある低所得者層の居住地でユーザーテストを行った際、彼らは衝撃的な現実に直面します。多くの住民は、最新のスマートフォンではなく、ターゲットで20ドルで買ったフリップフォン(折りたたみ式携帯電話)を使用していたのです。
この発見は、Ayushi氏に深い教訓を与えました。「デジタルスクリーンのない人にデジタルスクリーンを渡しても意味がない」。彼らが開発した最先端のアプリは、最も支援を必要とする人々にとっては全く役に立たなかったのです。この経験から、彼女は「最も一般的なデジタルデノミネーター(lowest common digital denominator)」のために構築することの重要性を学びました。つまり、最先端の技術を追求するのではなく、最もアクセスしやすく、最も多くの人々が利用できる技術基盤に合わせてプロダクトを設計する必要があるということです。
また、このプロジェクトでは、公共部門におけるプロダクト開発が、単なる技術的な側面だけでなく、法的な側面(レガシーシステムとの連携、規制)、予算、広報、監査など、非常に多岐にわたる側面を考慮する必要があることも痛感しました。これらの要素すべてが、プロダクトマネージャーの責任範囲となるのです。
3. IRS Direct File (直接申告) プログラム:「薄くスライスする」戦略
Ayushi氏のチームは、米国における税務申告のプロセスを改革する画期的なプロジェクト、IRSの「Direct File(直接申告)」プログラムにも貢献しました。米国では、多くの納税者がTurboTaxなどの第三者ソフトウェアプロバイダーを介して税金を申告しており、政府に直接無料で申告する選択肢がありませんでした。
Ayushi氏のチームは、議会に対する独立した第三者報告書の作成を担当し、この無料の直接申告プログラムの実現可能性を評価しました。米国には1億5000万人以上の納税者がおり、その税務シナリオは非常に多様で複雑です。すべてのケースに対応できるシステムを一度に構築することは、時間的にも予算的にも、そして技術的にも不可能でした。
そこで、彼らは「薄くスライスする(thin slice)」という戦略を採用しました。これは、一度に完璧な大規模システムを目指すのではなく、実現可能な小さなセグメントに焦点を当て、段階的に展開していくアプローチです。 具体的な方法として、まずIRSの内部従業員を対象に製品を展開しました。これにより、システムを大規模な公衆の監視下で失敗するリスクなしに、内部でテストし、サポートを構築することができました。 そして、その後の展開では、納税者の所得水準ではなく、税務シナリオの「複雑性」に基づいてスライスする決定をしました。最もシンプルな税務状況の納税者から始め、徐々に複雑なケースへと対応範囲を広げていったのです。
このアプローチは、税務申告のプロセスを合理化し、最終的には「非構築」の成功例となりました。彼らは10個の重複するシステムを削除し、より効率的な1つのシステムに統合することに成功しました。このプロジェクトは、単に新しい技術を導入するだけでなく、既存の非効率なプロセスや重複するシステムを特定し、それらを合理化することが、公共部門における真の価値創出につながることを示しています。
「デザインの問題」と「エンジニアリングの問題」
Ayushi氏は、公共部門における課題の多くは、純粋な「エンジニアリングの問題」ではなく、「デザインの問題」であると強調します。
エンジニアリングの問題とは、例えば「ラップトップのヒンジを5000回開閉しても壊れないように構築する」といった、明確な目標と解決策を持つ技術的な課題です。これは、リバースエンジニアリングやテストを通じて、最適解を見つけることができます。
しかし、デザインの問題は、より曖昧で、解決すべき問題そのものの定義から始める必要があります。公共部門における課題の多くはこれに該当します。例えば、子育て手当の申請プロセスを改善する際、単にデジタル申請フォームを「構築」するだけでは不十分です。イリノイ州の例では、子育て手当のウェイティングリストが存在しないという政策上の問題がありました。これは、手当が利用可能でない場合、申請者は単に「申し訳ありません、提供できません」と告げられるだけで、需要が記録されないことを意味します。デジタル化された申請システムを導入したとしても、それは単に「壊れたファネルの入口」を広げるだけであり、根本的な問題(政策デザイン)が解決されなければ、より多くの申請者を失望させる結果となるでしょう。
テクノロジーは、上流の政策問題を解決することはできません。貧弱な政策デザインは、どんなに優れた実装でも補うことはできないのです。むしろ、政策立案者とプロダクト開発者が密接に連携し、政策そのものを「デザインの問題」として捉え、ユーザー(市民)の視点を取り入れて再構築することが不可欠です。これは、組織の壁を越え、異なる専門分野の人々が協力し、相互に尊重し合う文化がなければ達成できません。
公共部門の未来と希望
Ayushi氏は、公共部門での仕事が持つ困難さを認めつつも、常に希望を抱いています。その原動力は、彼女自身の仕事への深い情熱と、「より良い世界を構築したい」という強いビジョン、そして日々の業務で協力する同僚たちとの連帯感です。
AIとプロトタイピングの未来: AI技術の進歩は、公共部門におけるプロダクト開発のあり方を変える可能性を秘めています。AIを活用することで、プロトタイピングやテストをはるかに迅速に行えるようになり、より多くの人々が開発プロセスに関与できるようになるかもしれません。これにより、政策立案者がより具体的なツールやプロトタイプを通じて、政策の影響を事前に評価し、反復的な改善を行うことが可能になります。
バイリンガルな人材の育成: 公共部門の変革には、政策と技術の両方に精通した「バイリンガル」な人材が不可欠です。Ayushi氏は、ハーバード大学で、政策立案者と技術者が互いの言語を理解し、協力できるようなカリキュラムを教えています。これは、政策決定者と実装者の間の溝を埋め、より効果的なソリューションを共同でデザインするための重要なステップです。
「あなた」から「私たち」への転換: 公共部門のプロダクト開発は、しばしば「あなた方(政策立案者)が作ったものを、私たちが実装する」という分断された思考に陥りがちです。しかし、真の成功は、「私たち(政策立案者と技術者)が共に働き、現実的で、すべてのニーズを満たすものを作り上げる」という視点から生まれます。この「私たち」という共通認識を醸成するためには、組織内の文化変革と、異なる専門分野の人々が対話し、学び合う機会が必要です。
「アンビルディング」の重要性: 時には、新しいものを構築するよりも、既存の不要なものを取り除く「アンビルディング」が、最も効果的な解決策となる場合があります。Ayushi氏のチームが10個の重複するシステムを削除して1つに統合した事例は、その好例です。これは、技術的な効率化だけでなく、組合との交渉や予算編成など、多くの政治的・組織的課題を伴いますが、結果としてより効率的で負担の少ないサービス提供につながります。
結論:公共の利益のためのプロダクト開発への道
公共部門におけるプロダクト開発は、民間企業とは異なる独特の課題と機会を持っています。成功は、財務的リターンだけでなく、広範な国民への効果的なサービス提供と社会的成果の向上によって測られます。この目標を達成するためには、「構築の罠」から脱却し、「非構築」を含む多様なアプローチを取り入れる必要があります。
Ayushi Roy氏の経験は、単に優れた技術ツールを開発するだけでなく、政策デザインの根本的な問題を特定し、組織の壁を越えて協力し、ユーザーの真のニーズに基づいたソリューションを共にデザインすることの重要性を示しています。AIのような新しい技術は、このプロセスを加速させる可能性を秘めていますが、最終的には、政策立案者とプロダクト開発者が「バイリンガル」となり、相互に理解し、協力し合う文化を醸成することが、公共部門の真の変革を推進する鍵となるでしょう。私たちは、「構築」と「非構築」の両方を戦略的に使いこなし、社会全体の利益のために、より良い未来をデザインする責任を担っています。