はじめに:AIがもたらす「津波」:SaaS業界の変革期
AIの津波がSaaS業界を襲う:生き残る企業、淘汰される企業――インサイト・パートナーズ共同創業者ジェリー・マードックが語る未来
過去30年間で最も影響力のあるベンチャーキャピタリストの一人であるインサイト・パートナーズの共同創業者、ジェリー・マードック氏。900億ドル以上を運用する巨大ファンドを率い、Twitterの画期的な投資ラウンドを主導するなど、その慧眼で数々の成功を収めてきました。彼の投資哲学と未来予測は、常に業界の注目を集めています。
今、私たちはAIの波という、かつてない規模の変革期に直面しています。マードック氏はこの状況を「津波」と表現し、SaaS業界がこの巨大な波にいかに対応すべきかについて、深い洞察を提供しています。彼は単なる悲観論者ではなく、変化の兆候を捉え、高台へ避難することの重要性を説いています。「津波は沖合では無害だが、浜辺に到達すると危険になる。今はその到来を予期する時期であり、SaaS業界では『サスアポカリプス(SaaSの黙示録)』が起こっている」と彼は語ります。
本稿では、マードック氏の言葉を深く掘り下げ、AI、特に「自律型エージェント」がSaaSビジネス、投資戦略、さらには社会全体にどのような影響をもたらすのかを詳細に分析します。彼の豊富な経験から導き出される知見は、この未曽有の時代を生き抜くための貴重な羅針盤となるでしょう。
第一部:自律型エージェントがSaaSの未来を書き換える
1.1 AIの「津波」の正体:汎用AIから自律型エージェントへ
現在のAIの進化は、多くの投資家や企業にとって「過去5~10年間学んできたことが無関係になるのではないか」という根源的な問いを突きつけています。マードック氏が語る「津波」の比喩は、この状況を的確に表しています。津波は単一の波ではなく、前兆の波、ピークの波、そして後続の波が連続して押し寄せます。そして、その核心にあるのは、単なる汎用AIではなく、「自律型エージェント」であると彼は断言します。
自律型エージェントとは、目標を設定し、自ら計画を立て、実行し、結果を評価する能力を持つAIのことです。これは従来のAIが特定のタスクを実行する「ツール」であるのに対し、自律型エージェントは「従業員」や「パートナー」に近い存在であることを意味します。この概念は、現在のSaaS業界に壊滅的な影響をもたらすと同時に、前例のない機会を生み出します。
1.2 コードを書くエージェント:Cursorの「陳腐化」と新たな競争軸
自律型エージェントの最も衝撃的な能力の一つは、コードを生成することです。マードック氏が支援するAIネイティブスタートアップ(E2、Eventual、Lotus AI、Get Dynasty、Avenなど)は、OpenClawやNanoClaw、あるいは自社開発の自律型エージェントを使い、わずか数週間でコードを実際に書き始めています。これは、従来のソフトウェア開発プロセス、ひいてはソフトウェア産業全体の根幹を揺るがすものです。
彼は具体例として、多額の資金を調達した企業であるCursorに言及します。彼のポートフォリオ企業は「Cursorは陳腐化する」と見ていると語ります。Cursorは現在の製品としては素晴らしいかもしれませんが、自律型エージェントが主流となる未来においては、その位置付けが危うくなります。マードック氏自身は、Cursorのような既存企業も優秀なチームと潤沢な資金、そして顧客基盤を持っているため、自律型エージェントを取り入れ、方向転換するチャンスはあると見ています。しかし、そのためには「昨日」のことを考えるのではなく、「未来に何が起こるか」を迅速に捉え、適応する能力が不可欠です。AIビジネスにおいては、常に変化の最先端を行くことが求められます。
この変化の波に乗れない企業は、たとえ「AIを後付け」する戦略で一時的に生き残ったとしても、AIネイティブな思考で構築された企業には太刀打ちできないでしょう。真の競争優位性は、オープンソースコミュニティが牽引する「津波」の原動力に深く根ざし、AIネイティブなアプローチで事業を展開することから生まれます。
1.3 オープンソースAIの爆発:新しい「LAMStack」がエコシステムを再定義する
マードック氏は、OpenClawやその他の自律型エージェントを巡るオープンソースコミュニティの爆発的な成長に注目しています。OpenAIやAnthropicのような大規模企業が莫大なリソースを投入する一方で、オープンソースコミュニティは「膨大な数の人々」が開発と統合に携わり、驚異的な速度で進化しています。
彼はこの現象を、2000年代初頭のLAMPスタック(Linux、Apache、MySQL、PHP)の出現と比較します。9/11後の経済低迷期において、高価なSunサーバーやOracleデータベースではウェブサイトを構築できなかった時代に、LAMPスタックが安価な代替手段を提供し、ウェブサイトとEコマースの爆発的な成長を牽引しました。Googleもこの波に乗り、2004年に上場しました。
マードック氏は、自律型エージェントの時代にも同様の「CLAWスタック」のようなオープンソースのスタックが登場すると予測します。現在、推論レイヤーはClaude、Codex、Geminiといった主要なLLMが支配していますが、自律型エージェントは最終的に「オーケストレーション層」を持つようになると語ります。この層では、複数の異なるLLMをワークフローに応じて適切に使い分け、トリアージすることが可能になります。例えば、ワークフローの一部には高価だが高品質なClaudeを、別の部分にはDeepSeekやLlama 3のようなオープンソースモデルを組み合わせる、といった具合です。
このオーケストレーション層の進化は、オープンソースモデルの活用を加速させ、ひいてはASICチップの需要を高める「革命」をもたらすと考えられています。ASICチップは、特定のモデルをチップ上に直接配置することで、NVIDIAのような汎用GPUよりもはるかに安価で、ワークロードに特化したチューニングが可能になります。これにより、オープンソースモデルとASICチップが相互に影響し合い、新たなエコシステムを形成するでしょう。
第二部:ビジネスモデルと投資戦略の変革
2.1 ハードウェアの未来:ASICチップの台頭とNVIDIAの戦略
ASIC(特定用途向け集積回路)チップの重要性は、自律型エージェントとオープンソースモデルの進化によって劇的に増大します。モデルをチップに直接統合することで、コストを大幅に削減し、特定のワークロードに最適化されたチューニングが可能になるためです。これは、Jensen Huang氏が率いるNVIDIAのような汎用GPUメーカーにとって大きな挑戦となります。
マードック氏は、NVIDIAがGroqを買収した理由の一つとして、ASICチップへの対応能力を獲得するためだと推測します。Groqはメモリをチップに直接搭載する技術に長けており、これは事実上ASICチップの特性に近いものです。NVIDIAが今後も市場での優位性を維持するためには、現在のCUDAエコシステムがASICチップの爆発的な普及にも対応できる体制を整える必要があると指摘します。
しかし、NVIDIAがその価値を維持できるかどうかは、「実行力」にかかっているとマードック氏は強調します。MetaがNVIDIAのGPUに依存せず、ASICチップに投資しているのは、その好例です。Metaは自社のデータセンター向けにASICを開発することで、コスト効率と性能の最適化を図ろうとしています。これは、大手テクノロジー企業が自律型エージェント時代を見据え、ハードウェア戦略を根本的に見直していることを示しています。
2.2 ソフトウェア販売のパラダイムシフト:人間からエージェントへ
この変革の最も根本的な側面の一つは、ソフトウェアの「買い手」が変化することです。マードック氏は、やがてすべてのソフトウェアが「人間」ではなく「自律型エージェント」によって購入され、使用されるようになると予見しています。
彼は自律型エージェントを「従業員」と見なす視点を提示します。エージェントに認証情報とIDを与え、意思決定を委ねる。そして人間は、従業員を管理するように、エージェントが何を購入し、何を達成したかをレビューするのです。これは、企業が現在投資しているあらゆるソフトウェアについて、「未来はエージェントによってコントロールされるのか」という問いを突きつけます。
この変化は、ソフトウェアのビジネスモデルを根本的に変革します。彼はDockerを例に挙げ、消費ベースモデルへの移行が進んでいると指摘します。サンドボックスのような計算リソースは、メモリやコンピューティングパワーを購入するのと同じように、使用量に応じて課金されるようになります。エージェントは利用制限に達すると、人間に報告し、次の行動を決定するよう促すでしょう。
さらに、自律型エージェントの確率的な性質は、製品選択においても大きな影響を与えます。エージェントは特定のベンダーや技術に固執せず、10種類のPythonライブラリを10種類のサンドボックスで実行し、どのワークロードが最もパフォーマンスが良いかを自律的に判断するでしょう。開発者の経験に基づく選択ではなく、純粋な性能とコスト効率に基づいた意思決定が行われるようになるのです。これは、モデルの「コモディティ化」と価格競争を加速させる可能性も示唆しています。
2.3 既存SaaS企業の適応:システム・オブ・レコードの行方
「ボルトオンAI」戦略、つまり既存のSaaS製品にAI機能を後付けするアプローチは、マードック氏の言葉を借りれば「オリンピックで金メダルを目指す多くの選手」に似ています。誰もが挑戦しますが、実際にメダルを獲得できるのはごく一部の世界クラスの存在だけです。彼は、既存のSaaS企業が生き残るためには、AIネイティブな思考で自律型エージェントのためにソフトウェアを再構築する必要があると強調します。そうでなければ、わずか6ヶ月から18ヶ月後には、人間がソフトウェアを購入するという従来の前提が通用しなくなり、深刻な課題に直面するでしょう。
では、Salesforceのような巨大な「システム・オブ・レコード」企業はどうなるのでしょうか。マードック氏は、Salesforceが「エベレストのような存在」であり、一夜にして消滅することはないとしながらも、その価値は上に構築されている何十ものパートナー企業の健全性にかかっていると分析します。もしこれらのパートナー企業が次々と淘汰されれば、Salesforceの基盤価値も低下するでしょう。しかし、Salesforce自身が自律型エージェントの時代に適応し、その豊富なコンテキストデータをエージェントの活用に役立てることができれば、その価値はむしろ増大する可能性もあります。
彼のポートフォリオ企業であるCartaの例も示唆に富んでいます。Cartaは株式のシステム・オブ・レコードですが、もし株式のトークン化が進み、それがCartaのプラットフォーム上で管理されれば、その価値は無限に高まるでしょう。しかし、もし新しいシステムがCartaを迂回して構築されれば、その価値は失われてしまいます。つまり、既存企業が生き残るための鍵は、変化の波を正確に捉え、迅速に実行し、ビジネスモデルを適応させる「経営チームの実行力」にかかっているのです。
この「津波」は「高台へ避難せよ」という警鐘です。ビジネスを適応させ、旧来のやり方に固執せず、変化を受け入れる企業のみが生き残るでしょう。今日のSaaS業界では、ゼロから1億ドル規模の収益を達成するスピードがかつてないほど速くなっており、「トリプル・トリプル・ダブル・ダブル(TTDD)」といった従来の成長期待さえも吹き飛ばされています。これは、AIネイティブな企業が市場を急速に席巻している証拠です。
2.4 投資家が直面する課題:不確実性と新たな価値基準
AIの津波が押し寄せる中で、投資家はかつてないほどの不確実性に直面しています。従来の価値評価基準であった「収益」「成長率」「利益率」は流動的になり、「疑わしいもの」と化しています。この状況下で、どこに価値を見出すべきなのでしょうか。
マードック氏は、市場の動きについてウォールストリートの「雄牛の像」に例え、群集心理が作用すると指摘します。市場の価格反応が過剰であるか否かという問いに対し、彼はパニック売りではなく「様子見」の投資家が多数存在し、勝者と敗者が明確になるのを待っている状況だと分析します。
彼はこの状況を、2000年3月のドットコムバブル崩壊と比較します。当時、テック株は30~40%下落し、四半期で目標を達成できなければ50~60%も下落しました。Insight Partnersもまた、9/11という「クーデター」によって市場が壊滅的な打撃を受けるまで、数年間の苦境を経験しました。しかし、現在の状況は、変化の「速度」において当時とは異なります。
投資家にとって、この激動の時代において最も重要なのは「タイミング」であると彼は強調します。過去のVCファンドの成功は、その設立時期、すなわち「ヴィンテージ」と強く相関していました。例えば、2005年~2006年に設立されたファンドは、2008年以降のモバイル革命の恩恵を大きく受けました。
そしてマードック氏は、「今こそ新しいファンドを始める最高の時だ」と断言します。なぜなら、私たちは人間の意思決定から自律型エージェントの意思決定へと移行する、まさに「大海の変化(sea change)」の真った中にいるからです。古いモデルで成功した企業や投資家は、すでに裕福であるため、この変化に迅速に対応できない可能性があります。一方、この新しいモデルをゼロから受け入れる者は、巨大なアドバンテージを得られるでしょう。
VCファンド自身も自律型エージェントを活用すべきだと彼は提言します。市場分析や投資機会の評価にエージェントを用いることで、新しいAI企業がどこに向かうのか、ホワイトスペースはどこにあるのかをデータに基づいて正確に特定できるようになります。ベンチャーキャピタリストとスタートアップは、いかに自律型エージェントを使いこなすかという点で、同じレベルの競争環境に立つことになるのです。
第三部:社会と労働市場への深い影響
3.1 ホワイトカラーの自動化:雇用の未来とUBIの可能性
自律型エージェントの台頭は、社会、特に労働市場に深刻な影響を与えます。マードック氏は、データ入力、スケジューリング、エグゼクティブアシスタント、マーケティングといったホワイトカラーの仕事の多くが、最終的には自律型エージェントによってより良く行われるようになると明確に述べています。
この変化の最初の兆候は、新規採用の減速です。次に採用されるはずだったジュニアデベロッパー、エグゼクティブアシスタント、マーケティング担当者のポジションが、エージェントによって置き換えられるため、企業はホワイトカラーの従業員の採用を停止または減速させ始めます。そして、自律型エージェントの進化速度によっては、既存の職務も直接的な脅威にさらされるでしょう。すでに彼らはコードを書き、個人のスケジュール管理もこなせることを証明しています。
マードック氏は、このジョブマーケットの不均衡な影響について語ります。まず、中小企業が自律型エージェントを導入する可能性が高いと指摘します。なぜなら、2~4人規模の企業にとって、秘書一人分のコスト削減や顧客サポートの自動化(RetroAppの事例など)は、事業に大きな違いをもたらすからです。大企業(エンタープライズ)への普及は最後になるかもしれませんが、ChatGPT、Google、Anthropicなどの主要AI企業は、自律型エージェントを大企業に迅速に採用させることに注力するでしょう。
このような劇的な変化が起こるにつれて、政治的な影響も避けられません。マードック氏は、2年半後の大統領選挙で「ベーシックインカム(UBI:Universal Basic Income)」が主要な争点となる可能性さえ示唆しています。失業率が10~15%に達する事態をどの政権も望まないため、失業者をプログラムに組み入れ、再訓練したり、生活の質を向上させるための選択肢(都市を離れて田舎で食料を育てる、など)を提供したりする動きが出てくるかもしれません。ワイオミング州での退役軍人向けの革新的なビジネスモデルのように、テクノロジーによって少人数で大規模なビジネスを運営できるようになる事例もすでに存在しています。
3.2 新しい働き方と企業文化:ヘッドカウントは「バグ」となるか
企業における従業員数、つまり「ヘッドカウント」の概念も変化します。ClaerのCEOが「2030年までに7,000人から2,000人に削減する」と予測したように、ヘッドカウントはもはや「特徴」ではなく「バグ」と見なされるようになるかもしれません。マードック氏は、企業文化が「A級人材」で構成される場合、人間の従業員よりもはるかに多くのエージェントを持つことになるだろうと語ります。残された2,000人の従業員がより質の高い生活を送り、より多くの時間を家族と過ごせるようになれば、それは「素晴らしい勝利」かもしれません。
彼は、「10億ドル規模の企業を一人で運営する」というアイデアが現実的になる可能性についても言及します。自律型エージェントの賢さと、それをデプロイし、その結果に耳を傾ける人間の能力が問われる時代になるのです。OpenClawのような自律型エージェントが、レビューなしで自律的に動作し、従業員としての役割を果たすという事実は「人生における大きな違い」をもたらします。
この中で、人間が提供できるユニークな価値とは何でしょうか。マードック氏は「直感」を挙げます。エージェントは論理的な意思決定に優れますが、少なくとも当面は直感を持つことはできません。そのため、人間は優れた直感を発揮し、より良い意思決定を行うことが、成功の鍵となるでしょう。
第四部:マードック氏の哲学と未来への洞察
4.1 失敗からの学び:賢明な意思決定の源泉
ジェリー・マードック氏のキャリアは、数々の成功に彩られていますが、その根底には「失敗からの学び」があります。彼は「もし私に何らかの知恵があるとすれば、それは私が多くの失敗をし、そこから学んだからだ」と語ります。真の「エッジ」を知るためには、一度それを超えてみなければ分からない、というハンター・トンプソンの言葉を引用し、自身がケニアでの異文化体験で「エッジを超えた」経験を振り返ります。
投資家としての彼の成功は、失敗を恐れず、常にバランスを保っていたことにも起因します。「私はこのビジネスで毎年お金を失っていたので、常にバランスが取れていた。失敗することは分かっていたが、いつかは勝つことも知っていた」と彼は語ります。
彼にとって、成功は「経験と、いつどのように意思決定をするかという検証の組み合わせ」です。そして、意思決定には「論理」と「直感」という二つの要素が不可欠であり、特に直感が重要であると強調します。自律型エージェントには当面、直感がないため、人間の持つ直感が成功の差別化要因となるでしょう。
しかし、彼は自身の「直感」が最も間違っていた時についても語ります。それは、直感ではなく「希望的観測」だった場合です。特に、自分が好きで、賢いものの、どこか「快適すぎる」起業家、つまり「狂気が足りない」「執着心がない」人物に投資した場合に失敗を経験したと言います。成功する起業家は、時に「社交的に困難」であったり、「尖っていたり」「攻撃的」であったりするが、彼らの人間性の核心を見抜き、支援することが重要だと示唆します。
4.2 変化し続けること:適応の重要性
マードック氏は「変化しなければ死ぬ」という不変の原則を信じています。変化こそが、世界に適応し、生き残ることを可能にします。VCとしての彼のキャリアも、常に変化への適応の連続でした。
彼は、Insight Partnersの初期の失敗例として、「Insight Europe」を設立しようとした経験を挙げます。これは時期尚早であり、ニューヨークの拠点から遠く離れた場所でのリモートな意思決定は、投資の質を低下させました。「私たちがLPに販売する製品は、投資判断の質であり、それはリモートでの意思決定によって低下する」と彼は語ります。現在のところ、人間の管理下ではリモートマネジメントに懐疑的ですが、自律型エージェントが導入された未来では、この状況が変わる可能性もあると示唆します。
また、彼の投資哲学において、「タイミング」が最も重要であると改めて強調されます。優れた投資リターンは、ファンドの設立時期や投資実行時期と密接に結びついています。そして今、自律型エージェントの時代への「大海の変化」は、新しいファンドを始める絶好のタイミングだと彼は考えます。
マードック氏自身はInsight Partnersから引退し、タームシート交渉や取締役会、内部投資委員会、LPとのディナーからは離れましたが、「ゲームから離れたわけではない」と語ります。彼は信頼できる友人や知人が持ち込む案件に、彼らを助ける形で投資を続けており、それが「楽しさ」と「影響力」をもたらしていると言います。彼は、金儲けのためではなく、「創造的な影響」と「意味のあることをするチームの小さな一員としてプレイする」ことにモチベーションを見出しています。
4.3 お金と人生の真実:富の持つ意味
「お金には説明書がない」――これはマードック氏が人生で学んだ最も重要な教訓の一つです。他のあらゆる製品には使用説明書があるにもかかわらず、お金にはそれがない。だからこそ、お金を「エネルギー」として尊重し、賢く使う必要があります。無駄に浪費するのではなく、良いことのために、何かを成し遂げるために使うべきだと彼は説きます。ラリー・ペイジが「もし余分なお金があったら、イーロンに渡して世界を変えるものを建てさせるだろう」と言ったように、お金は起業家が素晴らしいことを成し遂げるための燃料となるのです。
彼の個人的な人生観も興味深いものです。彼は人生のかなり遅い時期に子供を授かりました。「若い頃の自分は子供を持つ準備ができていなかった。ただビジネスを構築することに夢中だった」と振り返り、もし早く子供を持っていたら、Insightのような企業を築き上げることは不可能だっただろうと語ります。彼の成功のブレイクアウトの瞬間は、9/11後のドットコムバブル崩壊をInsightが生き延びたことでした。多くのVCファームがゾンビ化し、パートナーが分裂する中で、彼らは「踏みとどまり、生き残った」のです。
父親として、彼は子供たちに「常にあなたを見ている」ということを認識し、彼らの前で「最高の自分を見せる」ことが最も重要だとアドバイスします。子供たちに心を開き、最高の自分として接することが、何よりも大切なのです。
4.4 未来への視点:長寿と新たな現実認識
マードック氏の未来への視点は、技術的な進歩が人間の存在そのものに深く影響するというものです。彼は、AIが「永遠の命」を助けてくれるかもしれないと冗談めかして語りますが、AIが人間の寿命を大幅に延ばす可能性については真剣に期待を寄せています。現在の健康状態をあと5年維持できれば、さらに5年寿命を延ばせるという説に同意し、医学や生物学におけるAIの役割に注目していることを示唆しています。
彼はまた、スタンフォード大学のAI研究者であるフェイ・フェイ・リー氏が提唱する「視覚的表現」に関する新しいスタートアップにも関心を示します。リー氏は、言語が世界の記述子としては非常に劣っている、つまり限定的であると指摘しています。詩人が感情や感覚を言語の限界を超えて表現しようとするように、自律型エージェントが「客観的な現実」を認識するためには、言語に依存しない新しい「世界の視覚的表現システム」が必要になるだろうとマードック氏は語ります。これは、AIが世界を理解し、人間と相互作用する方法に根本的な変革をもたらす可能性を秘めています。
まとめ:不可逆な変革の波に乗るために
ジェリー・マードック氏の言葉は、AI、特に自律型エージェントがもたらす変革の波が、SaaS業界、ビジネスモデル、労働市場、そして私たちの社会全体にとって、いかに不可逆的で広範な影響を持つかを鮮明に描き出しています。
この「津波」はすでに浜辺に到達し始めており、従来のビジネスや投資戦略は急速に陳腐化する可能性があります。生き残る企業は、自律型エージェントを事業の中核に据え、AIネイティブな思考で製品を再構築し、消費ベースの新しいビジネスモデルに適応できる企業です。オープンソースAIとASICチップの台頭は、この新しいエコシステムをさらに加速させるでしょう。
投資家にとっては、従来の価値評価基準が揺らぐ中で、「タイミング」と「実行力」を見極める能力がこれまで以上に重要になります。そして、新しいファンドを立ち上げる者にとっては、この「大海の変化」をゼロから捉える最大の機会が訪れています。
社会レベルでは、ホワイトカラーの自動化が急速に進み、雇用の未来とベーシックインカムの可能性が真剣に議論される時代が到来します。企業はヘッドカウントを「バグ」と見なし、人間はエージェントにはない「直感」というユニークな価値を提供する存在へとシフトしていくでしょう。
マードック氏の哲学は、この激動の時代を生き抜くための指針を与えてくれます。失敗を恐れず、常に学び、変化に適応すること。お金をエネルギーとして尊重し、建設的に使うこと。そして何よりも、この未曾有の変革期を、新たな創造と成長の機会として捉える前向きな姿勢が求められます。
AIの津波は、私たち一人ひとりの仕事、企業、そして社会のあり方を根本から問い直すものです。この波に乗り遅れず、高台へ避難し、未来を積極的に形作っていくことこそが、今、最も重要な課題であると言えるでしょう。