【CTO進化論:前編】技術の枠を超え、事業と未来を創造する「総合格闘技型CTO」の登場
現代のビジネス環境は、かつてないスピードで変化しています。特にテクノロジーが事業の中心となるスタートアップにおいて、CTO(最高技術責任者)の役割は、従来の「技術責任者」という枠を超え、事業の成長、組織の構築、そして未来のビジョン策定にまで深くコミットする「総合格闘技型」へと進化を遂げています。
Startup Aquarium 2025で開催された「CTO進化論」と題されたセッションは、この新しいCTO像について深く議論する貴重な機会となりました。レイヤXの松本氏、神主の原戸氏、ニモの曽川氏という、それぞれ異なる事業フェーズとバックグラウンドを持つ現役CTOたちが語った言葉から、私たちは現代そして未来のCTOに求められる本質を読み解くことができます。本記事では、このセッションで語られた深い洞察を紐解き、CTOがどのように技術、事業、そして組織を統合し、会社の非連続的な成長を牽引していくべきかを探ります。
序章:CTOの役割再定義が求められる背景
テクノロジーの進化は止まることを知りません。特に近年、大規模言語モデル(LLM)のような画期的な技術が登場し、ソフトウェア開発の風景は劇的に変化しました。この変化は、技術を事業にどう活用するか、その戦略を立案し実行するCTOの役割に大きな変革を迫っています。
従来のCTO像は、技術的な専門知識を深く持ち、開発組織を率い、プロダクトの技術的健全性を保つことに重点を置く傾向がありました。しかし、激しい市場競争の中で、技術は事業目標達成のための手段であり、事業成長に直結しなければその価値を十分に発揮できません。
セッションの冒頭で「今後営業ができるCTOが増えてほしい」という松本氏の発言は、この変革期のCTO像を端的に示しています。これは単にCTOが営業活動を手伝うという意味合いに留まらず、CTO自身が顧客の課題を肌で感じ、事業の全体像を理解し、その上で最適な技術戦略を立案・実行できる能力が不可欠であるという、より深い意味を含んでいます。
本記事では、CTOが技術の専門性に閉じず、いかに事業に深く踏み込み、会社全体の成長を牽引していくかについて、セッションでの具体的な議論を交えながら深掘りしていきます。
1. 「営業ができるCTO」の衝撃:事業視点と顧客解像度の極限
レイヤXの代表取締役CTOである松本氏は、現代のCTOに求められる最も重要な資質の一つとして「営業のできるCTO」を挙げました。この言葉は、従来のCTO像に一石を投じるものであり、事業視点と顧客解像度を極限まで高めることの重要性を浮き彫りにします。
1.1. 「事業視点=営業」という新しい方程式
松本氏は、事業視点とは「営業」に集約されると語ります。優れたプロダクトを創り出すためには、適切なテクノロジー、適切な事業モデル、そしてそれらを創り出す適切な組織の全てが揃う必要があります。しかし、多くのCTOがテクノロジーや組織の枠に閉じこもりがちであると指摘します。
「プロダクトが本当にお客様にとって役立つのか?」という問いに答えるためには、顧客のリアルな声、市場のニーズ、競合の動向といった事業の最前線に触れることが不可欠です。営業活動は、まさにその最前線であり、CTOが自ら顧客と対話することで、プロダクトの真の価値と課題を肌で感じることができます。これにより、CEOとの建設的な議論が可能となり、単なる技術的な意見の対立ではなく、事業全体にとっての最適解を導き出すことに貢献できるのです。
1.2. AIワークフォース事業立ち上げに見る「設計者のCTO」
松本氏自身の経験は、「営業ができるCTO」の思想を体現しています。彼が手掛けるAIワークフォースというエンタープライズ向けのLLM活用プロダクトでは、事業の立ち上げからR&D、そして現在の営業活動まで、全てを自身で担っています。
彼は毎日スーツを着て顧客のもとへ出向き、生成AIを活用したデジタル化の課題やニーズを直接ヒアリングします。顧客の抱える具体的な悩みに対し、どのようなプロジェクトが最適かを自ら提案し、推進する。この一連のプロセスを通じて、事業で何が本当に重要なのかを深く理解します。
この事業理解があるからこそ、プロダクト上でどのテクノロジーをどのように行使すべきかが見えてきます。プロダクトの具体的な形が明確になり、それを実現するための最適な組織体制も同時に設計できるのです。松本氏は、この一連の設計を「一人である程度の頭で設計できないと、CTOとしてあまりワークしない」と語り、プロダクト構想から組織設計までを統合的に担う「設計者のCTO」像を提示しています。
1.3. LLM時代の開発組織の変容とスピード
LLM(大規模言語モデル)の登場は、開発組織のあり方にも大きな変化をもたらしています。松本氏が指摘するように、LLMを活用することでプロダクト開発に必要な人員数はどんどん小さくなっていきます。少人数で、時には「一人スタートアップ」でユニコーン企業を創出できる時代が到来するとまで言われる中で、CTOはより広範な領域にわたる能力が求められます。
この時代において、CTOが事業サイドに踏み込み、自身の頭の中で企画からリリース、そして顧客とのコミュニケーションまで全てを設計・実行できる能力は、プロダクト開発のスピードと質を飛躍的に向上させます。コミュニケーションの効率化に注力するよりも、一人の人間が全ての情報を統合し、瞬時に意思決定を下せる方が、圧倒的に早く、高精度なアウトプットが可能になります。
松本氏は、顧客との対話の中でプロトタイプをその場で作成し、翌日には顧客に提示するといった具体的な行動を通じて、顧客の課題解決を加速させていると言います。AIワークフォースの初期開発では、LLMで何が作れるか分からない中で、まず住宅業界の一顧客に絞り、仮説検証を行いました。顧客の困り事と自身の制約条件を掛け合わせ、「こんなものがあると良いかも」という仮説をぶつけ、実際に導入して喜ばれた経験から、その抽象化された構造を基にエンタープライズ向けプロダクトへと発展させました。この「自分で動きながらプロダクトの形を見出す」プロセスは、「営業ができるCTO」だからこそ成し得るものです。
2. 組織を動かす「人連れてこい」:採用戦略としてのCTO
CTOの役割は、プロダクトと事業の設計に留まりません。松本氏は、もう一つの重要な役割として「人連れてこい」という採用へのコミットメントを挙げました。特に、自分より優秀な人材を組織に引き入れることは、持続的な成長のために不可欠です。
2.1. レイヤXのCTO経験者採用戦略
レイヤXでは、CTOを連れてくることに注力し、現時点では社内に20人ものCTO経験者がいると松本氏は語ります。メルカリ、DMM、クックパッド、フィンク、カルタホールディングスなど、名だたる企業でCTOを務めた経験者が集結しているのです。
これは偶然の産物ではなく、明確な採用戦略に基づいています。松本氏は、「その人が目の前にいたら、まずなぜうちに来ないのかを考える。そして来てくださいと声をかけ、なぜノーなのかを掘りに行く」と語ります。これは、単なるヘッドハンティングではなく、長期的な「ナチャリング」(育成・関係構築)のプロセスを意味します。
2.2. 5年、10年越しのナチャリングがもたらすもの
松本氏自身、多くの人材を10年越しで採用していると言います。一度断られたとしても、関係性を継続し、会社のビジョンや成長を共有し続けることで、数年後、数十年後にその人材が会社の重要な一員となる可能性を信じて投資し続けるのです。
このような長期的な視点での採用活動は、単に個々のスキルを持つ人材を獲得するだけでなく、業界全体の知見を組織に流入させる効果も持ちます。異なる企業のCTO経験者が集まることで、多様な技術トレンドや開発ノウハウが共有され、組織全体の技術力が底上げされます。これは、特に変化の激しいテクノロジー業界において、会社の競争優位性を保つ上で極めて重要な要素となります。
CTOが自ら採用に深くコミットし、優秀な人材との関係性を築き、会社の魅力や未来を語り続けることは、技術リーダーとしての信頼を構築し、組織の成長に不可欠な知的資本を蓄積するための基盤となるのです。
3. 経営を牽引するCTO:連続的成長と非連続的成長の設計者
神主で取締役CTOを務める原戸氏は、CTOの役割が会社のボード構成によって大きく変わると指摘し、神主における自身の役割を3つの視点から語りました。彼の言葉は、CTOが単なる技術部門のトップではなく、会社の事業全体、特に成長戦略の設計者としての役割を担うことの重要性を示しています。
3.1. ボード構成がCTOの役割を左右する理由
レイヤXのようにCEOとCTOの双方がテクノロジーバックグラウンドを持つ会社と、神主のようにセールスなど事業サイドに強みを持つメンバーがリーダーシップを占める会社では、CTOが果たすべき役割は異なります。神主の場合、技術バックグラウンドを持つのが原戸氏一人であるため、彼に求められる技術的な視点からの貢献はより大きくなります。
原戸氏は、神主のCTOとして自身が果たすべき役割を次の3つに集約します。
- 非連続的成長の創出: 技術的に不確実性の高い領域や、自社が最も深く掘り下げられる場所において、顧客解像度を高め、非連続的な成長の種を見つけ出す役割。これは、松本氏が語る「営業ができるCTO」に近い役割です。
- 連続的成長の加速と持続: 現在の事業の連続的な成長を持続可能なものにし、そのスピードをさらに向上させるための基盤を構築する役割。
- 経営意思決定の集合知の向上: 会社の意思決定において、技術的な視点やエンジニアリングに関する理解を経営チームにもたらし、集合知としての意思決定の完全性を高める役割。
この3つの役割は、CTOが単なる技術責任者ではなく、会社の未来を創造し、その成長を技術的側面から保証する「事業戦略家」であることを明確に示しています。
3.2. マルチプロダクト戦略を支えるID基盤:連続的成長の具体例
原戸氏が語る「連続的成長の加速と持続」の具体的な事例として、神主のマルチプロダクト戦略におけるID基盤の構築が挙げられます。神主のお客様は日本の労働人口の約3900万人を占めるノンデスクワーカーであり、彼らに向けた複数のプロダクト(調子化、社内コミュニケーション、設備保全など)を展開しています。
同社は、約1年半前にマルチプロダクト戦略へと舵を切りました。この時、原戸氏が経営意思決定のループの中にいなければ、おそらくID基盤への先行投資は難しかったでしょう。しかし、彼が技術的な視点からその重要性を強く主張し、独立したID基盤プロダクトとして投資・構築を進めました。
もしID基盤が統一されていなかったら、何が起きていたでしょうか?
- クロスセルの阻害: 各プロダクトでIDが別々になるため、顧客は「また設定するのか」と負担を感じ、他のプロダクトへの導入が進まなくなります。
- 顧客体験の分断: 顧客は複数のプロダクトを使う中で、それぞれのプロダクトが独立した存在に感じられ、トータルとしての体験価値が得られません。
- 技術的負債の蓄積: 各プロダクトが独自の認証・ID管理機能を実装し続けることで、開発効率が低下し、セキュリティリスクも増大します。
このような事態を防ぐため、ID基盤への先行投資は、マルチプロダクト戦略の成功、ひいては会社の連続的な成長を支える上で不可欠な技術的基盤となりました。これは、技術的投資が直接的に事業成長に貢献する明確な例であり、CTOが経営層に対して技術の戦略的価値を説得し、実行に移す能力の重要性を示しています。
3.3. 各チームへの権限委譲と疎結合アーキテクチャ
原戸氏のCTOとしてのもう一つの手腕は、各プロダクトチームへの権限委譲と、それを可能にするアーキテクチャ設計にあります。神主では、アイデンティティの統一と、各プロダクト間の通信を必ずAPI経由で行うという制約(APIゲートウェイモデル)のみを設け、それ以外の技術選定や詳細設計は各プロダクトチームに一任していると言います。
これにより、各チームはMySQL、PostgreSQL、DynamoDBなど、それぞれのプロダクトと顧客、ビジネスにとって最適な技術スタックを選択できます。この「リスクを取り、各プロダクトのスピードを上げる」という方針は、エンジニアリングの自律性を尊重しつつ、会社全体の生産性を最大化するための戦略です。
CTOは、全ての技術的な細部に介入するのではなく、会社全体のアーキテクチャの方向性を定め、重要な基盤技術への投資を決定し、各チームが自律的に動けるようなフレームワークを提供する。このバランス感覚こそが、成長期の企業におけるCTOに求められる重要な資質と言えるでしょう。
4. 技術知による経営の最適化:CTOが防ぐべきリスク
原戸氏の3つ目のCTOの役割、「経営意思決定の集合知の向上」は、特にソフトウェアテクノロジーを中核とする現代のビジネスにおいて極めて重要です。経営の意思決定プロセスに技術的な視点をもたらすことは、リスクを回避し、より最適で持続可能な成長を可能にします。
4.1. ソフトウェアビジネスにおける技術知の重要性
「ソフトウェアテクノロジーを使ってビジネスしているんで、経営の意思決定がソフトウェアテクノロジーのナレッジが薄い状態でやるってありえないんですよね。」原戸氏のこの言葉は、現代の多くの企業にとって真実です。
技術的バックグラウンドを持たない経営層だけでは、時に技術的負債の増大、開発効率の低下、セキュリティリスクの見落とし、あるいはエンジニアのモチベーション低下といった、負の側面を十分に認識できないまま意思決定を下してしまう可能性があります。これらの問題は、短期的には見えにくいかもしれませんが、長期的には会社の競争力を著しく損ない、事業成長を阻害する要因となり得ます。
例えば、新しい事業アイデアが生まれた際、CTOは技術的な実現可能性、開発期間、必要なリソース、将来的なスケーラビリティ、そして競合技術との差別化ポイントなど、多角的な視点から分析し、経営層にインプットできます。また、リーガルリスクと同様に、技術的なリスクも早期に特定し、対処することで、将来的な大きな損害を防ぐことができます。
4.2. エンジニアのエンゲージメント維持と経営の橋渡し
CTOは、経営層とエンジニアリング組織の間の橋渡し役としても機能します。経営の意思決定が、たとえエンジニアリングにとって理想的でなくとも、その背景にある事業的な理由や市場の状況を、技術的な視点からエンジニアに分かりやすく説明することで、組織の不信感や離反を防ぐことができます。
「会社の意思決定した結果なんかエンジニアリングの心がみんな離れてなんか退職者出すみたいな」という原戸氏の指摘は、経営と技術の間のギャップがもたらす悲劇を物語っています。CTOが経営チームの一員として、技術者の視点からその意思決定プロセスに深く関与し、理解と納得感のあるコミュニケーションを行うことは、エンジニアのエンゲージメントを維持し、組織全体の生産性を高める上で不可欠です。
4.3. 「予言の書」:未来を創るCTOの先見の明
CTOは、現在の技術課題に対処するだけでなく、未来の技術トレンドを見据え、会社の進むべき方向性を示す「予言の書」を書く役割も担います。松本氏がLLMエージェントに関する「予言の書」を2年前に社内で書いていたというエピソードは、この先見の明の重要性を物語っています。
未来は不確実であり、何が正解か分からない中で、CTOは技術的な視点から仮説を立て、それを検証するための投資を提言します。この「分からないからこそ面白い」「自分の手でより良くできるチャンスがある」という姿勢こそが、スタートアップを駆動する原動力であり、CTOがその最前線に立つべき理由です。
技術トレンドをいち早く捉え、それが自社の事業にどのようなインパクトをもたらすか、どのような新しい機会を創出するかを予測し、具体的な戦略へと落とし込む能力は、非連続的な成長を実現するために不可欠な資質と言えるでしょう。
結論:未来を拓く「総合格闘技型CTO」の肖像
Startup Aquarium 2025での「CTO進化論」セッションは、現代そして未来のCTO像を深く洞察する機会を提供しました。レイヤXの松本氏と神主の原戸氏の言葉から浮かび上がったのは、技術の専門性に閉じず、事業、組織、そして経営全体に深くコミットする「総合格闘技型CTO」の肖像です。
この新しいCTO像に求められる資質は多岐にわたります。
- 事業・顧客解像度: 営業の最前線に立ち、顧客の課題やニーズを肌で感じ、プロダクトと事業の全体像を深く理解する能力。
- 統合的設計力: プロダクト構想から技術選定、組織設計、そして事業戦略までを一貫して自身の頭の中で設計し、実行できる能力。
- 人材獲得力: 優秀な技術人材を惹きつけ、採用し、長期的な関係性を築くことで、組織の知的資本を最大化する能力。
- 戦略的技術投資: 会社の連続的・非連続的成長を支えるための基盤技術への投資を判断し、実行する能力。
- 経営への貢献: 技術的な視点から経営意思決定の集合知を高め、リスクを回避し、持続可能な成長を可能にする能力。
- 先見の明と不確実性への対応: 未来の技術トレンドを予測し、不確実性の中で新しい価値を創造する「予言の書」を描き、それを実現するための道を切り拓く能力。
LLMのような破壊的な技術の登場は、このCTOの進化をさらに加速させています。少人数で大きなインパクトを生み出せる時代において、CTOは単なる技術責任者ではなく、会社の未来をデザインし、その成長を技術と事業の両面から牽引する「最高戦略責任者」としての役割を担うことになります。
松本氏が語る「自分の手でより良くできるチャンス」という言葉、そして原戸氏が実践する「リスクを取ってスピードを上げる」姿勢は、まさにこの新しいCTO像を体現しています。不確実な時代であるからこそ、CTOは技術の枠を超え、事業全体を俯瞰し、自らの手で未来を創造する「総合格闘技」に挑むべきなのです。
この進化の波に乗るCTOこそが、現代のスタートアップを次のステージへと導く、真のリーダーとなるでしょう。